欠陥自動車 FORD PINTOと 欠陥原発を運転する電力会社

世界最悪クルマに認定されている FORD PINTO。
http://d.hatena.ne.jp/gianni-agnelli/20110106/1294239615

その欠陥隠しは、現在、危険な原発を運転している日本の電力会社も同罪だと中部大学の武田邦彦教授は指摘している。


東電が原発被災者に補償金支払いの元となる書類を配布し始めたという報道がありました。近代国家になってから、私たちはさまざまな経験を通じて、「正義、文化、快適、健康」などを守ってきました。東電とその他の日本の電力会社の行為は、私たちが長い間の犠牲を払って築いてきた根源を破壊する行為にも感じられます。本論に入る前に、1970年代に起こった「フォード・ピント事件」について触れておきたいと思います。

・・・・・・・・・

1960年代になり、日本の自動車メーカーが小型車を次々と開発する中、アメリカのビッグ3の一つフォードが小型車ピントを販売し始めました。それまでのアメリカ車と言えば、豪華絢爛で大型、ガソリンをまき散らしながら走るというものでしたが、ほぼ初めて本格的な小型車に挑戦したのです。

ところが、発売して暫くすると「追突されると火災になる」ということがわかりました。車の構造上の欠陥で、ガソリンタンクをボルトが突き破るのが原因でしたが、それがわかってフォード社内では対策会議が開かれます。その席上で議論されたことは、次のとおりでした。


1. もしリコールして車を回収し、改善すると、販売台数は1250万台で、改修に要する費用は1台あたり11ドルだから、合計約100億円になる。


2. もしリコールしなければ、死傷者の出る火災が180件起こると想定される。死んだ人たちに20万ドル払い、負傷した場合の損害賠償に6.7万ドル、車両炎上2100台×車両損失700ドルとすると、合計約40億円になる。


3. 車を直せば100億円、そのままにしておけば死者はでるが40億円ですむ。それなら40億円を選択しよう。


この事件は後の「フォード・ピント事件」と呼ばれるようになり、「社会的悪」ということになりました。もしこのような判断が許されれば、「死者や健康障害が出ることがわかっていても、それを補償すれば良い」ということになり、社会は大混乱に陥いります。

火災が起こるとわかっている欠陥ストーブを売る、不完全燃焼で数名の犠牲者がでることがわかっていてガス湯沸かし器を売る、子供が病気になることがわかっているのに農薬入り食材を売る・・・などが起こるからです。

あにはからんや、ピントの事故は続き、フォードは社会的な非難を浴びて、結局、車を回収することになりました。考えてみれば、ピントを買ってくれたお客さんはフォードのファンでもあり、顧客でもあります.その人たちが焼け死ぬことを予想して、「補償金を払えば良いだろう」などということはもう通用しない社会になったのです。

・・・・・・

それから40年。同じことが日本の電力会社に起ころうとしています。電力会社と言えば地域独占で大会社。そこで働いている幹部は一流大学をでて本来なら社会的に尊敬される人のはずです。でも、原発事故以来の東大教授を見て貰えばわかりますが、人間は「知識がつけばそれを悪いことに使う」という特徴を持っています。

東京電力福島原発で被災した人に補償するための書類を配り始めました。まだ病気になった人はいませんが社会的に大きな打撃を与えたことは確かです。それは、これまで震度6地震で日本の7つの原発が破壊し、そのうち3つが全電源を喪失、1つ(福島第一)が爆発しました。つまり、日本の原発は決定的な欠陥があり「フォード・ピント2世」なのです。

今、動いている原発は「やがて爆発すると予想される製品」ですし、それを動かすということは、「補償さえすれば、被害を受けても良い」という前時代的な考えにもとづいているのです。日本の原発は一度、リコールし、設計を変更して改善し、そして社会の了解を受けて再稼働するべきなのは当然でしょう。

http://takedanet.com/2011/09/post_2252.html

この話に共通していることは、安全性よりも経済性が優先されるという思考です。どちらも儲かれば良いという発想。なんとなく新自由主義に連なる発想という気がしています。

Goodwood Festival of Speed 2011 POST-WAR GTs Part2


1965 FORD GT40
V8気筒 OHV 4736cc 380ps/6500rpm
 1965年、FORD は宣伝効果を狙い、レースの運営を FAV (Ford Advanced Vehicles)からヤンキー然とした Caroll Shelby 率いる Shelby American に任せることとした。Shelby は年間売り上げが1000万ドルを超える、北米最大の独立系スポーツカー・メーカーとなっていた。これに目を付けた FORD と、レースに情熱をささげる Caroll Shelby との思惑が合致したのだ。その数年後には FORD に捨てられることも知らず、 Shelby はル・マンに勝つことに専念することとなる。

続きを読む

Goodwood Festival of Speed 2011 F1 THE COSWORTH YEARS Part3


1971 MARCH-COSWORTH 711
 March Engineering は1969年創業。 Max Mosley, Alan Rees, Graham Coaker と Robin Herd の4人によって創設された。社名の MARCH はそれぞれの頭文字からとっている。4人はそれぞれ特異な分野の専門家であり、Max Mosley は広告と経営、 Robin Herd はマシンの設計、 Alan Rees はレーシング・チームのマネージメント、Graham Coaker はオックスフォードシャー州 Bicester にある工場の生産管理を行った。

続きを読む

Goodwood Festival of Speed 2011 F1 THE COSWORTH YEARS

 偉大なる非凡なエンジン、FORD-COSWORTH DFV。これを搭載していない可哀そうなライバルの奮闘を横目に、彼らは空力の追及や新しいシャシーの設計に集中することができた。




1967 BRABHAM-REPCO BT24
V8気筒 SOHC 280ps/7800rpm

続きを読む

Goodwood Festival of Speed 2011 PRE-WAR INDY

 今年は Indianapolis 500 が始まって100周年という記念すべき年にあたる。グッドウッドでは特別展示となり、遥々北米大陸から多数のマシンがやってきた。 
 アメリカの自動車レースと言うのは大雑把で単純、“WHITE TRASH”の娯楽というイメージが拭いきれず、興味の対象ではなかったのだが、今回、戦前のマシンを間近に観ることができ、イイものだと少しは思うようになった。

Indianapolis 500 公式サイト
http://www.indianapolismotorspeedway.com/indy500/




1911 MARMON‘WASP
直列6気筒 SV 9830cc
 1911年5月30日火曜日、記念すべき第1回レースで優勝したマシン。100年も前の話だ。
 当時、地元インディアナポリスに存在した“MARMON”という自動車メーカーの社長 Howard Marmon は、自社のクルマを宣伝するチャンスと捉え、社員で技術者の Ray Harroun に出場を要請、彼は技術者に専念するつもりだったので「これ一度限り」という約束で出場をきめた。
  Ray Harroun は Indianapolis Motor Speedway が煉瓦舗装でタイアには過酷なものと理解し、タイアの消耗がレースの勝利を左右すると考えていた。
 彼がレースのレギュレーションを読むと、「1人乗りのクルマでの出場」が禁止されていないことに気がつく。当時はメカニックが同乗する複座が一般的だった。1人乗りであれば重量も軽減され、タイアの摩耗も抑えられるし、燃費も良くなると考えた。そこで単座のモデルを制作した。
 スタートのグリッドは申し込み順であった。 MARMON 社は当時“Model 32”という市販車を売り出していたので、わざわざスタートに不利な32番を取得している。
 練習走行時に Ray Harroun は理想のレース・スピードを120㎞/hと判断した。タイアの損耗と、ピットでタイア交換をしてロスする時間を考えてのことだった。
 レース本番に先駆け、26日の金曜日にタイム・トライアルが行なわれた。その際、出場するドライバーの一部から「MARMON‘WASP’は同乗メカニックがいないので、後ろから速いクルマが追ってくるのを確認できず危険」とのクレームが出た。これに対して Ray Harroun はバックミラーを取りつけた。これはレース史上初のバックミラー装着と言われている。
 いざレースがスタートすると Ray Harroun は熱くならずに冷静に平均120㎞/hで走り、ライバルがタイア交換でピットインするのを横目で見ながら確実に順位をあげていき、見事、優勝することになる。100年後のいまも、タイア交換はレースの勝利のカギとなっているのは御承知の通り。 Ray Harroun は社長との約束通り、その後キッパリとレース活動を辞めて技術者に専念したという。彼は史上初の熱くならないレーサーだったともいえるだろう。
INDIANAPOLIS HALL OF FAME からの参加。






1913 PEUGEOT L45
直列4気筒 DOHC 4Valve 4500cc
 DOHC、4バルブという今日のレースエンジンでは常識的なスペックが、約100年前のプジョーによって完成されていたことに驚かれる方も多いであろう。実際は前モデルの1912年“L76”に搭載された技術である。燃焼室は半球形型で、吸排気はクロスフロー方式という先進的なものであった。全体の構想はスペインの高級車メーカー Hispano Suiza にいた Paul Zuccarelli(技術者であり1級のドライバー)によるもので、スイス人の Ernest Henry が設計している。
 インディーに参戦した“L45”は、戦後 Mercedes-Benz W196 が採用するバルブ強制駆動 desmo=dromic を先駆けて採用していた。Jules Goux の操縦により1913年のインディー500マイル・レースをブッチギリで優勝した。
 偉大なる先駆者であり、フランス車特有の知性を感じさせるマシンである。




1935 MILLER-FORD V8
V8気筒 OHV 3600cc 130ps/5000rpm
 Preston Tucker がフォードに売り込みレース・チューンで有名な Harry Miller に造らせたマシン。FF駆動、全輪独立懸架のメカニズムはインディ初であり、独創的で意欲的なマシンだった。エンジンはストックのフォード製V8を搭載している。FFにすることによりボディは低く低重心で魅力的なスタイルとなった。
 しかし、設計に取りかかったのがレースの僅か2ヶ月前で、最後の1週間は1日24時間の突貫工事で完成させた。そのため充分なテスト走行をすることなしで参戦することになってしまった。10台の予定が完成したのは4台。結果は惨憺たるもので、ステアリングのギアボックスがエンジンの熱で故障することにより、レース早々に全車リタイアとなってしまった。