Goodwood Festival of Speed 2011 INDY REAR-ENGINED REVOLUTION Part2





1965 LOTUS-FORD 38
V8気筒 DOHC 4Valve 4195cc 495ps/8400rpm
 1962年、インディー500の直前に開催されたオランダGP。LOTUS 25 のデビューでもあった。そこで Porsche 804 にて参戦していた Dan Gurney (ギアのリンケージの故障でリタイア)が LOTUS 25 をインディー仕様に改造すれば優勝も狙えると直感、Colin Chapman をインディーに招待した。初めてインディーを観戦した Chapman は旧態依然としたインディーのマシンに驚くとともに、自分の LOTUS であれば優勝できると確信を持つようになった。インディーの優勝賞金は莫大なもので(現在は3億円超)、悪化しつつある経営も改善できると考えたのだ。そのためには、もっとパワーのあるエンジンが必要だった。
 その頃、FORD もインディーへの参戦を目論んでいた。乗用車用に開発していた試作エンジンをベースに、インディー用のエンジンを造ろうと考えていた。それを知った LOTUS は渡りに船と、FORD のエンジンを搭載することを考え、折衝を始めた。
 タイミング良く、1962年のUSグランプリで LOTUS 25 に乗った Jim Clark が優勝、USフランプリが終わると LOTUS 25 はそのまま Indianapolis Motor Speedway に運ばれ、 Jim Clark が試走した。 LOTUS のシャシーに FORD のエンジンを搭載すればインディーに勝てると FORD は考え、 LOTUS-FORD のプロジェクトが始動することになる。
 このプロジェクトが最初に生みだしたのが LOTUS-FORD 29 である。

1963 Jim Clark's Lotus-Ford 29,race morning

 多忙なスケジュールを割いて制作された初のインディー・マシン LOTUS-FORD 29 は、 LOTUS 25 のホイールベースを127mm延長したモノコックシャシーであり、 FORD のプッシュロッドOHV・4.2ℓ エンジンを搭載していた。
 1963年、インディーに出場した Jim Clark が操る LOTUS-FORD 29 は、初出場にもかかわらず、あっさりと2位を手に入れた。本レースに出場した32台のうち、ミドシップはわずか3台のみであった。優勝はできなかったが、ミドシップの優位性は揺るぎないものになった。


Team Lotus’s Jim Clark, Colin Chapman, and Dan Gurney,

 最初の挑戦で予想以上の成果を収めた LOTUS-FORD は、翌年を目標として、より本格的な活動を開始する。 FORD のV8は1気筒あたり4バルブのDOHCヘッドとHilborn 製のインジェクションの組み合わせでパワーは370psから425psに向上、足回りその他を改良して LOTUS-FORD 34 に発展させた。1964年のインディー、 Jim Clark は予選でトップ、 Dan Gurney が2列目のグリッドを確保したが、レースの結果は思いがけぬタイア・トラブルにより、両者とも序盤でリタイアを余儀なくされた。
 Colin Chapman は、設計の一新を企て、LOTUS-FORD 38 のチーフ設計者として Len Terry を起用する。彼の設計したモノコックシャシーは、コクピット周辺のシェルまでストレス・メンバーに組み入れて捩れ剛性を高めた、フル・モノコック構造であった。燃料タンク容量は一挙に40%増の340ℓとなったが、総重量は微増にとどまった。
 このシャシーにベンチテストで495psのパワーを出した改良型V8エンジンを搭載した LOTUS-FORD 38 は、Jim Clark, Bobby Johns, Dan Gurney という強力な布陣で挑戦した。結果は Jim Clark の優勝、Bobby Johns の7位の他、 LOTUS-FORD 34 に乗った Parnelli Jones が2位に入るなど、 LOTUS-FORD によって長らく続いた“Offy”の独占を打ち破ったのだ。
 この時、インディーに出場するミドシップは33台のうち32台にもなっていた。





1966 EAGLE-FORD T2G
V8気筒 DOHC 4Valve 4195cc 495ps/8400rpm
 1965年、カリフォルニア在住のGPドライバー Dan Gurney とテキサス出身の元レーサー Carroll Shelby によりAAR(All American Racers)が結成された。
 Goodyear の資金援助を受けて、インディー500マイルとUSAC(United States Automobile Club)のレース出走車と、F1グランプリカーの設計製造を目的とし、主任設計者として LOTUS-FORD 38 などの設計者として Len Terry を迎えた。制作されるマシンには、アメリカの象徴でもある EAGLE の名が冠された。
 EAGLE-FORD T2G は、AARのデビュー作であり、1966年のインディーに Dan Gurney が参戦したが、クラッシュでリタイアに終わっている。





ヤマハのステッカーが気になる。エンジンの開発に関与したのだろうか?



1968 LOTUS-PRATT & WHITNEY 56‘STP SPECIAL’
ガス・タービン 550ps/6230rpm(減速動力軸回転)
 ガス・タービン・エンジンを使用した2度目のマシン。インディー初のガス・タービンは、前年の1967年、STP TURBO-CAR である。途方もないトルクのために FERGUSON の4WDを採用している。
Parnelli Jones による操縦で、ほぼ優勝確実と思われたのだが、減速ギアのベアリングがダメになりリタイアしている。
 1969年のインディーで同じく FERGUSON の4WDを採用した、斬新なFRP製ウェッジ・シェイプの LOTUS-PRATT & WHITNEY 56‘STP SPECIAL’が登場。しかし、不幸にも期待の成果を挙げずに終わっている。
 練習走行中、Mike Spence がサイド・ウォールに激突して死亡する暗い事故で幕が開いた。Joe Leonard は、予選で276㎞/hという圧倒的なスピードで1位となり、ポールポジションでレースをスタート。レース最終盤191周までトップでありながら、本番では燃料ポンプのシャフトが折損して12位となった。チーム・メイトの Art Pollard , Graham Hill の両車もそれぞれ188、110ラップで好位置から退かねばならなかった。
 
 搭載されたガス・タービンは航空機用ターボ・プロップの汎用工業用でコンプレッサー駆動用のタービンと動力用のタービンを別とした、ガス発生部と動力部が機械的に連結されていない2軸式である。ガス・タービンはエンジン自体が一種のトルク・コンバーターとなっており、制止トルクは140㎏mという凄まじいトルクを発生する。従って駆動系は動力タービンからの減速ギアだけであり、クラッチもギア・シフトも不要だ。エンジン自体がピストン・エンジンと比べると大幅に簡素化されたものとなっており、著しい熱の変化や激しい摩耗を受ける部品はほとんどなく、1200時間の無整備運転が可能という絶対的な耐久性を確保している。事実上、テスト走行やレース共に全くエンジンの整備は不要というわけだ。
 Parnelli Jones によれば、レース中でも豪快な排気音がなく、ただタービン特有のヒューンという音が響き、ブレーキパッドがディスクに接触する音までコクピットで聞こえたそうだ。
 これは観戦する側からすれば、味気ない静かなレースを意味し、興味が半減してしまうとも言える。 またガス・タービンの開発には莫大な費用がかかるし、ピストン・エンジンに比べてどのような等価比を持つべきなのか、その根拠がないという問題を残した。結果的にUSACは1967年のレース終了後にガス・タービンに対して事実上の禁止措置となる、空気吸入口面積制限(15平方インチ)を設けている。 LOTUS-PRATT & WHITNEY 56‘STP SPECIAL’に続くマシンは未だ出現していない。