Goodwood Festival of Speed 2011 F1 THE COSWORTH YEARS

 偉大なる非凡なエンジン、FORD-COSWORTH DFV。これを搭載していない可哀そうなライバルの奮闘を横目に、彼らは空力の追及や新しいシャシーの設計に集中することができた。




1967 BRABHAM-REPCO BT24
V8気筒 SOHC 280ps/7800rpm
 FIAは1966年から3リッターにレギュレーションを変更、フェラーリを除き、他のチームは適当な3リッターのエンジンを保有していなかった。経営難に陥りながらも主要な英国チームにエンジンを供給していた COVENTRY-CLIMAX は親会社 JAGUAR の命によりF1エンジンの供給を止めてしまっていた。
 Jack Brabham はライバルが苦戦する中、現実的な選択で成功を収めることになる。即ち、非力であっても信頼性が高いエンジンでレースを勝ち抜くと言うものであった。彼は市販乗用車に搭載されている軽合金製のV8エンジンを探した。早くエンジンを造るためである。Oldsmobile のV8とトヨタのV8が候補に挙がり、オーストラリア出身の Brabham のためにこのエンジン制作を引き受けていたオーストラリアの部品メーカー REPCO との検討の結果、ROVER が生産用3.5リッターV8に Oldsmobile のV8のブロックを使用し成功しているのを評価し、Oldsmobile のブロックをベースにすることが決定した。トヨタに関してはブロックの剛性に懸念があり却下されたのである。
 完成したエンジンは280馬力と非力ではあったが、ライバルが手をこまねいていたので充分戦闘力のあるものであった。搭載されたシャーシは、旧型の鋼管スペース・フレームであったが、REPCO 製のエンジンは軽かったので制限重量そこそこの512㎏で納まった。完成した BT19 によって Jack Brabham は1966年度の世界チャンピオンを勝ち取った。
BT24 は点火系を Lucas のコイルから、同じく Lucas のトランジスター点火方式に改良され、310ps/7800rpmにまでパワーアップされた。これにより、1967年度の世界チャンピオンはチームメイトの Denis Hulme のものとなったのである。






1968 LOTUS-COSWORTH 49B
V8気筒 DOHC 4Valve 2993cc 415ps/9500rpm 
 1966年度のグランプリを迎えるにあたって、Colin Chapman は苦悩していた。頼りの COVENTRY-CLIMAX がグランプリ・エンジンの生産中止を決定したため、新規定の3リッター・フォーミュラーに対して勝てるエンジンを失ってしまったのである。66年度は BRM の奇抜なH16型エンジンを買い受けて走る予定だったが、開発は進まず、たとえ搭載しても重く複雑なH16では苦戦することが予想された。
 そこで Chapman は FORD に対し、COSWORTH が3リッター・フォーミュラー・エンジンを開発するために強力な資金援助をしてくれるよう説得した。インディーにおける LOTUS の成績が良かったこともあり、この提案は受け入られることになる。つい数年前まで、大衆車 FORD ANGLIA のエンジンを自社チューンしてFJのユーザーに提供していた小さな町工場のCOSWORTH は FORD から25万ドルに及ぶ資金援助と技術援助を得て、グランプリ・エンジンの設計を開始し、短期間で名機DFVを完成させた。1967年のデビューから80年代の初頭まで、長きにわたってF1を席巻したエンジンであり、その寿命の長さはこれからも破れらることはないであろう。
 元ホンダF1の監督であった中村良夫さんはDFVを次のように評している。

 フォード・コスワースDFVはこのように非常に常識的なエンジンであり、別に際立った特徴もなく、無理した理念のコジツケもない。
 ただしボルト1本に至るまで設計者キース・ダクワースのエンジンの思想が一貫しており、その彼のエンジン思想は職人的といえるまでに実戦的であって、プロフェッショナルとしての裏づけと理論がある。
 大企業メーカーが、多くのエンジニア達を動員して作り上げる場合、とかく変なアマチュアリズムに流れやすい(場合によれば自己満足のために、場合によれば上層部に迎合するために)、そのようなエンジンとはハッキリ一線を画した本格的なプロの作ったエンジンである。(著書『レーシングエンジンの過去・現在・未来』より) 

 エンジン自体をシャシー構成強度メンバーとして考えられており、大型のエンジン・マウント・メンバーを介して、前部モノコック・シャーシに強固にボルト付けされている。北米の Chaparral で一般化されたウィングをリアに装備しているのも新しいところだ。
この個体は1968年、Graham Hill のドライブにより世界チャンピオンを勝ち取ったマシンそのものである。
 Colin Chapman がインディーに出場したチームのスポンサーシップを学んで、それをF1GPに持ち込んだのも、このマシンが最初である。それまでF1マシンは国ごとに色が決められていた。英国ならブリティッシュ・グリーンだったのを、ゴールドリーフというタバコの塗装にしてチーム名も GOLD LEAF TEAM LOTUS としてしまった。これ以降、F1はタバコ会社の走る広告塔になってしまうのだ。

CLASSIC TEAM LOTUS からの参加。
余談ではあるが、ロータスはケチ臭く、終始ロープを張って一般客が近寄って撮影するのを拒絶していた。終始フリーだったアルファ・ロメオとは大違いの対応であった。