ホンダ空冷エンジンの悲劇


 黒煙に包まれた HONDA RA-302。1968年のフランスGPのことである。
 雨に煙るルーアン・サーキットの下りS字ベンドで、Jo Schlesserは帰らぬ人となった。スタートからわずか2ラップ目、コントロールを失った新型空冷F1は、土手に乗り上げて横転し、猛火と黒煙に包まれたまま、一塊の金属と化してしまったのだ。明らかに経験の少ない Jo Schlesserには「速く走ることはない、安定したスピードを維持してもらいたい」という中村監督の声は聞こえなかった。

 1968年6月29日、空冷(事実上の油冷)V8気筒 3000cc HONDA RA-302のお披露目が羽田の東急ホテルにて行われていた。荒川のテストコースを僅か40周ぐらいかしていないマシーンが10日後のフランスGPに向けて送り出されようとしていた。それには創業者である本田宗一郎氏の空冷に対する執拗な執着があった。
当時、ホンダ・チームの監督であった中村良夫さんは次のように記している。

「素性のわかっている水冷の RA-301でさえスズカ・テストがロクスッポできなかったばっかりにレースがテストのような形となり、完全に勝てたはずのモナコ、スパをみすみすテスト不十分で発見できなかったミスで失っている。まして何から何まで未知の空冷 RA-302をいきなり英国に運んでいったいどうする気なのかまるで気違い沙汰でしかない」
「日本でテストする時間もなく、いきなり英国に持ち込まれた車をシルバー・ストーンでテストした限りでは、多くの可能性はもっているがその時点としては、ただ車ができたというだけで“グランプリを走れる”という状態ではなかった」
二玄社刊『グランプリ 2』より)

 中村良夫さんとしては、フランスGPではエキジビション的に数ラップ走らせるだけで、レースには出ないことを決めていた(既にエントリーは1ヶ月前に締め切られていた)。
 ところが、ホンダ本社は、遮二無二このマシンを出走させるべく、政治的に動いてレースにエントリーさせることに成功したのだった。

 Jo Schlesserの事故の後、エントリーを認めたノルマンディ自動車倶楽部へ中村さんは激しく抗議した。そこには中村さんのサインの無いエントリー票が残されていた。
葬儀の夜、モンマルトルで苦い酒をガブ飲みした中村さんは、袋小路にしゃがみ込んで反吐を吐き続けたという。


 Jo Schlesserの事故の1年後、またもやホンダ空冷エンジンを搭載したマシンに悲劇は起きた。
 1969年8月10日、鈴鹿12時間耐久レース。真夏の耐久イベントとして当時人気絶頂であったというこのレース。午前9時30分、出走車35台によるル・マン式スタートで悲劇の幕は切って落とされた。
 ホンダRSC(レーシング・サービス・クラブ)はこの年に発売された空冷乗用車1300のエンジンをチューンして搭載した、HONDA R1300で出場した。鈴鹿サーキットのVIP席には本田宗一郎の番頭役として現役だった藤沢武夫副社長もお孫さんと一緒に観戦していた。
 R1300は2台がエントリーしていたが、#6がガス欠でリタイアとなったのが午後6時少し前。残った#7も他車と接触していた。そして燃料補給でピットインしたときには3位となっていた。交代したドライバーの松永喬が猛烈な追撃を開始、午後8時5分にはトップに躍り出た。そして午後8時30分過ぎに悲劇が起きた。
 ヘアピンとスプーンの中間で突然コントロールを失った#7は、外側のガードレールに激突してコース中央へ弾き返されたところへ、周回遅れのサニーが突っ込み、2台とも炎上したのである。
 松永は全身火傷で1ヶ月後に亡くなった。享年26歳であった。