ホンダ AK型トラック

2輪メーカーとして世界トップの地位を固めつつあったホンダの次の目標としては、当然のことながら4輪への進出ということになった。中村良夫氏を責任者とした計画が開始されたのは1961年の夏のことであった。その際に計画されたのは軽規格のトラックとスポーツカーである。
当時のホンダの販売網は、自動車に対してはズブの素人であり、軽トラックであれば売りやすいだろうというのが理由であった。その逆に軽規格のスポーツカーというのも世界初であり、自動車販売のバイク屋さんでも売りやすかろうということであった。

当初、軽トラックには、空冷水平対抗4気筒エンジンを検討していたが、初の4輪車として2つのエンジンを開発生産するのはコストを考えると大いに不利であると判断し、2シーター軽スポーツのAS型と同じエンジンをトルク重視のセッティングで搭載することになった。その結果、軽トラックでありながら水冷直列4気筒 DOHC、4連キャブレター 360ccという、当時の日本の軽トラックの規格を超えた、贅沢なスポーツエンジンが搭載されることになった。