STANGUELLINI STORY その1 “SQUADRA STANGUELLINI”結成まで

スタンゲリーニ家の商売の始まりは、今から131年前の1879年にさかのぼる。チェルソ・スタンゲリーニ“Celso Stanguellini”は今日でも応用されているオーケストラのティンパニーの音を機械的に変える発明で事業を成した。そののち彼の興味は楽器から機械へ、そして動力へと移っていった。いつか馬車が自分で動くようになればと考えていたようだ。乗り物への関心も自転車、3輪車、オートバイ、スリーホイーラー、自動車と変わっていった。



“1908 FIAT Tipo Zero(12/15 hp)”
2ブロック 直列4気筒自動吸入バルブ 3770cc 14ps/1200rpm 最高速70㎞/h

ハンドルを握ってふんぞり返っている人物。それが、チェルソの息子であるフランチェスコ・スタンゲリーニ“Francesco Stanguellini”だ。その隣に座っているのが1908年ロンドン・オリンピックのイタリア代表マラソン選手“Dorando Pietri”、「ドランドの悲劇」で有名な人だ。彼の帰国凱旋にフランチェスコが買ったばかりの“FIAT Tipo Zero”を走らせたのだ。ヘッドライトが装備されておらず、フロントにナンバー・プレートもないことに注意。この頃はナンバーが義務づけられていなかった。それと右ハンドルであることにも注目。当時は右側通行でも右ハンドルとなっていたのだ。ちなみに終戦後数年までアルファなどの高級車は右ハンドルだった。ついでに、ドランドの前にチョコンと座っているのはなぜかわかるだろうか? この人はショーファーで、オーナーがドライブするときはランニングボード(補助イス)に座っているというわけだ。事故のときは真っ先に死ぬ運命にあったのだろう。



これは現在“MUSEO STANGUELLINI”に展示保存されている上記の“FIAT Tipo Zero”だが、イタリアでも登録が義務づけられた後で、ナンバーが取り付けられていることに注目されたい。“1 MO”とあるが、これはモデナで最初に登録されたクルマであることを意味している。


1899年チェルソの息子、初代フランチェスコ・スタンゲリーニは、裕福な都市モデナにおけるチェイラーノ“Ceirano”*1フィアットのディーラーを創業し、のちにSCAT車の販売も引き受けた。
彼はその一方で友人のヴィンチェンツォ・ランチア“Vincenzo Lancia”とともに、いくつものロードレースに出場、1925年にはスクアドラ・スタンゲリーニ“SQUADRA STANGUELLINI”*2を結成し、同じモデナ製のミニヨン・モーターサイクルでロードレースを疾走した。



1925年モデナでの“SQUADRA STANGUELLINI”。左端の自信に溢れた男は跳ね馬の“Enzo Ferrari”。同じモデナの名士として仲が良かった。右端が初代フランチェスコ、その隣が息子のヴィットリオ“Vittorio”。



1927年、新人に指導する初代フランチェスコ。その新人の名は後にグランプリを席巻する“Tazio Nuvolari”である。

*1:ジョバンニ“Giovanni”とマッテオ“Matteo”のチェイラーノ兄弟は、トリノから南へ60㎞ほど下ったクオネの出身で、いずれも優秀なエンジニアだった。特にウェルレイエス“Welleyes”モーターサイクルを製造していた兄のジョバンニの工場はフィアット以前のイタリア自動車界の聖地だったようで、のちにレーシング・ドライバーとして名を上げるヴィンチェンツォ・ランチアやフェリーチェ・ナッザーロもそこからフィアットへ移った50人の工員の中にいたのである。チェイラーノのすべてを3万リラでフィアットに譲渡したジョバンニは1903年に新しくSCAT車を生み、弟のマッテオも1903年にイターラ“Itala”を、さらに1906年にSPAを生み、1904年に兄弟でラピド“Rapid”を創設した。いずれも自動車創成期のイタリアの高性能車ばかりで、フィアットの基盤を築いたこと、後にランチアが自らの名を冠したクルマを生むことを考え合わせれば、イタリア自動車工業史の中にあっていかに偉大な存在かが知れよう。

*2:“SQUADRA”というのは、軍隊における連隊という意味。ちなみにスクーデリア・フェラーリの“Scuderia”の語源は厩舎である。