フィアットも志は高かったのだよ


記念すべきFIATの1号車 “1899, Fiat 3 1/2 HP”


ランチア・ランチがランチア・クラブ・ジャパンの主催で11月6日(土)〜7日(日)に行われる。場所は静岡県裾野市下和田656 テイジン富士教育研修所。
くわしくは→http://www.lanciaclub.jp/

このイベントは見学だけの人もOKということなので、自分も行く予定。クルマもってなきゃダメなどというクローズドなクラブもあるなかで、このようなオープンな態度は有り難いことだ。

ところで、ランチア・クラブ・ジャパンさんのHP(http://www.lanciaclub.jp/)を拝見させてもらったが、HISTORYに気になる記述があった。

ランチアフィアットやフォードとは、志が根本的に違う。フィアットやフォードは車を作って利潤を得るのが目的だが、ランチアはクルマを作ること自体が目的だ...

果たしてそうだったのか、フィアット500のオーナーとしては気になったのだ。

フィアット創設の偉大なる歴史を、高島鎮雄編『世界の自動車 フィアットニ玄社より引用紹介しよう。



“Giovanni Agnelli”


自動車メーカーの生まれる過程には幾つかのパターンがある。なかでも最も多くその例をみるのが、ひとりの技術的な天分をもった若者が苦心の末に独力で彼の初の自動車を作り上げ、それが発端となって企業が生まれる、というケースであろう。
創立者の名を冠したクルマのほとんどがその例であり、長い歴史を誇る会社の多くがこの範疇にはいるといってよい。そこにはたいていの場合パイオニアの血のにじむような苦心談と、立身出世の成功談がつきものである。しかしごく希には例外もある。その最も偉大な例がフィアットであろう。むろんフィアットが今日あるためには、きわめて多くの人々の叡智と努力が投ぜられていることは疑う余地もないが、それにもかかわらず、フィアットはその発端からイタリアにひとつの大自動車メーカーとして計画され、充分に機の熟すのを待って設立されたものであるといわざるを得ない。そしてこのフィアット設立の原動力となり、第2次大戦後に亡くなるまでその行方を照らしてきた偉大な指導者こそ、“Giovanni Agnelli”(ジョバンニ・アニエッリ1866-1945)その人であった。
ジョバンニ・アニエッリは1866年8月13日、トリノ近郊の“Perosa”という村で生まれた。財産家の農場経営者であった父親を5歳の時に亡くした彼は、母親の勧めもありモデナの陸軍士官学校に入り、卒業すると陸軍に入隊し20歳で騎兵将校となった。しかし平和が続き世の中は繁栄の兆しをみせていたから、若いアニエッリ中尉もそうした時代に自らの生涯を賭けるべき世界を模索していた。彼は特に早くから内燃機関とその応用について深い関心を抱いていた。当時のイタリアには工業らしいものはなかったから、アニエッリもガスや電気の欠乏した地域での農業の機械化に内燃機関を応用しえないかと考えたのである。そこで彼は“Gottlieb Daimler”や“Enrico Bernardi”教授(エンリコ・ベルナルディ、イタリアにおける初期の内燃機関の権威)の著作を読みあさり、ついには“Padua”大学の工学部にベルナルディ教授を訪ねて知識の吸収に努めたことさえある。また兵営で友人ふたりとジャンクヤードから拾ってきた古いダイムラー・オイル・エンジンをリビルト、回そうとして暴発事故を起こしたこともあった。事故から2〜3ヶ月後、軍隊に飽きたアニエッリは26歳で退役、いよいよ自らの道を歩くことになった。その後トリノに移り住んだ彼は、住居近くの“luigi storolo”の自動3輪自転車工場に出入りするようになり、自らも1台を買って分解、組み立てを修得した。こうして彼はこの生まれたばかりの交通機関とめぐりあい、その将来に強い確信を抱くに至ったのである。
ヨーロッパの片田舎にすぎなかったイタリアにも、19世紀の末になるとボツボツ外国製の馬なし馬車が街に姿を見せはじめ、進歩的な貴族や富豪の間にまず愛用者が現れていた。

1899年の7月1日、“Torino via lagrange”の“Emanuele Cacherano di Bricherasio”(エマニュエレ・カチェラーノ・ディ・ブリケラージョ)伯爵の宮殿のような住まいの書斎には、トリノの進歩的な名士が9人参集していた。
9人の中にはむろんこの家の主人ブリケラージョ伯やアニエッリ、ビスカレッティ伯の顔も見える。この日、ここでは新しい自動車会社を興すための、いわば設立準備会が開かれようとしていたのだ。机についたブリケラージョ伯は引き出しから書類を出すと、回りに座を占めた8人の発起人たちに向かって組織の草案を読み上げた。ついで「アニエッリ、君のサインがほしいのだが」と問うと、アニエッリは「もちろんサインはするが、一つだけ条件がある。われわれは健全な基盤に立ってこれを行ない、将来を保証しなければならない。もはや時間を浪費することはできない。私は数日間ニースにいたが、もし諸君がそこでの自動車の活躍を見たら、敵がわれわれの門前まで迫っていることに気づいたろう。フランスでは公共の輸送まで自動車によっている。われわれは何を行なおうとしているのだろう……?」と答えた。
自分の会社が造った自動車でレースに出たいと、軽い気持ちでフィアット設立に立ち会った者をアニエッリは牽制した。彼がフィアットの設立に参加したのは自動車に対する興味だけではなかった。当時欧州の自動車産業はフランスのメーカーに席巻されていたが、アニエッリはフィアットを、これに対抗できるだけの会社に育て、発展させていくという野望を抱いていたのである。
このアニエッリの鋭い洞察力と強い意志に裏づけられた発言により、新しい自動車会社の設立はその場で決定され、その日のうちに“ Via Alfieri”にある“Banco di Sconto e Sete”(銀行)で公の文書に調印が行われた。ブリケラージョ伯自身は副社長の役しか引き受けようとしなかったので、“Ludovico Scarfiotti”(ルドヴィーコスカルフィオッティ)が社長に選ばれ、アニエッリは書記に任ぜられた(間もなく社長となるが)。重役陣には“Biscaretti”(ビスカレッティ)伯を初めとする6名が選ばれた。新しい会社の名は“Fabbrica Italiana Automobili Torino”(トリノのイタリア自動車製造所)と決定され、製品はそのイニシャルを綴ってFIATと名づけられた。

アニエッリの言葉を待つまでもなく、さしも“ヨーロッパの田舎”といわれ著しく工業化の遅れていたイタリアにも、19世紀の終わりには主にフランスとの国境を越えて“motorization”の波はひたひたと打ち寄せていた。したがって、イタリアで自動車を造ろうとしたのはフィアットが最初ではなかった。それどころか“Enrico Bernardi”教授、“Michele Lanza”(ミチェーレ・ランツァ)、“Ceirano”(チェイラーノ)兄弟など、フィアット以前にイタリアで自動車を造った者は数知れないほどだ。しかしいずれの場合にも試作ないしは手作りの段階を大きくは出ず、その製品(というよりむしろ作品と呼ぶべきだろう)は1台ずつ異なっているのが常であった。しかし、フィアットは明らかに違っていた。フィアット創立者たちは自動車の将来性をはっきりと見通した上で、その生産を大規模に企業化しようとし、そしてそれに成功したのである。
フィアットがそれに成功しえたのは、一つには創立者たちの先見の明によるところであるが、同時に彼らの思想の進歩性も見逃すことができない。
たとえばアニエッリは自らは社会主義者ではないと主張し、社会主義を経営者の面前で赤旗を振るだけの退屈な行為ときめつけながらも、資本家たちを自らの利益に汲々としすぎると批判、相互のよりよい理解と協調の上に立って大企業を築きうるという考え方をもっていた。さらに自動車が人間社会の基盤に変革をもたらすだろうこと、そして大規模な自動車の量産を行ない、全世界にイタリアの工芸の伝統を広める工場の存在を固く信じていた。ブリケラージョ伯になると自らは古い因習の世界にありながらもっと急進的で、マルクスの著作を読み、労働者階級の解放に力を貸したといわれている。フィアットがヨーロッパで最も早く大衆車の量産に成功したのも、このような進歩的な思想をもった指導者をいただいていたからにほかならない。
派遣労働者をボロ布のように使い捨てる日本の自動車産業や強者の論理であるところの新自由主義者とは根本的な思想が違うのだ。


当時まだ農業国にすぎなかったイタリアで、自動車を曲りなりにもつくるのは並大ていの苦労ではなかったろう。しかしフィアットは設立された1899年に、早くもその名のついた第1号車を世に送り出している。それには次のような経緯があった。
当時トリノには“Giovanni Ceirano”(ジョバンニ・チェイラーノ)の経営する工場があり、“Welleyes”という名のオートバイを造っていた。その共同出資者のひとりがブリケラージョ伯で、彼がチェイラーノを改組しようとしていたところへアニエッリが加わって結局フィアットが生まれたのであった。一方フィアット誕生3ヶ月前の1898年4月、チェイラーノは偉大なる技術者“Aristide Faccioli”(アリスティーデ・ファッチオーリ)の設計で初の4輪自動車を完成していた。その優秀性に着目したアニエッリはブリケラージョ伯と相談、50人の工員(その中にはランチア創立者“Vincenzo Lancia”も含まれていた)とファッチオーリの特許、そしてファッチオーリその人を含めてチェイラーノ社をそっくり買収したのである。ファッチオーリはフィアットのテクニカル・ディレクターの重職に据えられ、1899年の11月には早くも10台の 3 1/2HP車を完成、続く6HP車の設計を開始した。
20世紀の始めから第一次大戦までの自動車の創生期には、各国のメーカーは製品の宣伝のために競ってレ一スに出場したが、誕生間もないフィアットも例外ではなかった。初期のフィアットで国際レースに名を成したドライバーには、ヴィンチェンツォ・ランチア、“Felice Nazzaro”(フェリーチェ・ナッザーロ)など、当時一流中の一流のドライバーがいた。これらの名手の乗る巨大なチェーン・ドライブ フィアットは初期のイタリア、フランス・GP、タルガ・フローリオで幾度か優勝し、フィアットの名を大いに高めた。名ドライバーの一人、“Carlo Saramano”(カルロ・サラマノ)は、レースを退いて後もずっとフィアット社に止まり、60年代初頭、70才まですべての試作車のテストに従事していたと言う。フィアットのすぐれたドライビング ポジションと定評のある操縦性は、サラマノの指導によるところが大きい。1921年には、フィアットは突如として3リッター 8気筒レーサーを以てGPレースに再び参加した。この年は不成功であったが、23年にはスーパーチャージャー付2リッター8気筒でカムバックし、イタリアGPに優勝した。これを最後としてフィアットはGPレースとは直接の縁を切ったが、1955年にランチアが財政的負担に耐え切れず、GPレース参加を中止した時、すべての D50 F1 と資財を買い取ってフェラーリに贈ったのはフィアットであった。
http://d.hatena.ne.jp/gianni-agnelli/20100911/1284130829
1920年代に会社としてレース参加を止めて以来、フィアットは専ら実用車の生産に努力を集中したが、毎年のミッレ・ミリアには多くのフィアットがプライベートで参加し、実用車としては驚ろくべき平均速度でクラス優勝を続けた。


イタリア車乗りには忘れて欲しくないことがある。

フィアットはイタリアそのものだ」という事実だ。

イタリアの自動車工業は、常にフィアットを核としてフィアットを中心として発達してきたのであり、直接の関係はなくともフィアットの恩恵を受けざるメーカーもカロッツェリアも、あるいは部品メーカーもイタリアには存在しないのである。
たとえば、フィアット支配下にあるランチアは、もとはといえば最初期のフィアットの契約レーシング・ドライバーであったヴィンチェンツォ・ランチアが独立して創始したものであり、アルファ・ロメオの黄金期を築き後にランチアフェラーリでも活躍した名技術者“Vittrio Jano”(ヴィットリオ・ヤーノ)も初めフィアットにいたのを“Enzo Ferrari”(エンツォ・フェラーリ)が引き抜いたものである。アバルトモレッティ、ナルディ、チシタリア、オスカ、スタンゲリーニ、ジャンニーニといったイタリアに星の数ほどもあるチューナーも、フィアットがなかったら存在さえしなかったろう。
経営難でランチアがレース活動を中止すると、ヤーノが設計した傑作マシーンD50をフィアットが買い取りフェラーリに与えた話など、経営的な戦略があったとはいえ、それ以上に感じられるのは家族的な連帯意識なのだ。
イタリアの自動車工業はフィアットという“親”を中心にがっちりと固まっているのだ。このような連帯意識と、フィアット自身の責任感があって、フィアットのイタリア国内での類い希な独占が許されているのだと思う。

近年、イタリアでも日本同様に核家族化が進み少子化も増加傾向にある。イタリアの大家族というものが崩壊しようとしている。これはフィアットにとって警戒すべき事態なのだろう。