1959  P-M Poggi Formula Jr

昨年末、ツインリンクもてぎの走行会で謎のFJ(Formula Jr)が参加していました。
1956年にイタリア自動車クラブ・ミーティングに若き精鋭ドライバーが集結してレギュレーションが決められた“Formula Junior”ことFJ。
http://d.hatena.ne.jp/gianni-agnelli/20100924/1285254082

この個体は1959年にモデナ在住の Eugenio Poggiによって設計されたもの。元Stanguelliniの技術者であった Ing Massiminoが助言していると言われ、デザインやメカニズムはStanguellini FJの影響を受けている。


エンジンは排気量1100ccのレギュレーションに従い、FIAT1100のものを搭載。ギアボックスもFIAT製。もちろんフロント・エンジンだ。


ドライバーズ・シートはドライブシャフトをかわすために、右に大きくオフセットしている。


ボディ製造はTazio Giorgio Nuvolariを輩出した聖地マントヴァカロッツェリアらしい。ステアリングの影で社名が撮れなかった。残念。


ヘッドレストをめくると、細いロールバーが見え、その奥に燃料給油口がある。

’66 第3回日本GP 観戦者の視点から

故Y氏の御遺族から許可を頂き、貴重な第3回日本GP観戦時の写真をここに掲載する。


Porsche 906

ミツワでの内覧会だろうか? 左端がY氏、その隣が滝進太郎。
航空運賃込の車両価格は当時1,076万円。いまの貨幣価値で1億円というところだろう。



スタート直前の様子。



Porsche 906
#6 滝進太郎(28歳)の906。リタイア。
性能は素晴らしいものだが、プライベートのエントリーであり、練習不足で給油に手間取るなど、プリンス・ワークスとのピットワークの差は大きかった。43周目にオイルで滑ってガードレールにクラッシュとなった。



ABARTH SIMCA 1300
#2 佐藤清人(24歳)。8位。



PRINCE R380
#11 砂子義一(33歳) 優勝車。
翌年には日産に吸収合併されてしまったプリンスの最後の花道でもあった。


PRINCE R380
#9 横山達(33歳) 4位。
プリンスのピットの燃料タンクがピットの高い位置に取り付けられて、重力方式により素早い給油を可能にしていたことが写真下でよくわかる。



DAYTONA COBRA
#21 酒井正(23歳) エンジン不調でリタイア。1965年のル・マンに出場したマシンそのものにエンジンを換装してある。その後、ATに改造され、70年代末頃に中古車として格安で並んでいたものを、シェルビーが来日して買い取ったといわれている。
http://www.mooneyes.co.jp/wildman/2011/0115/1101



TOYOTA 2000GT
#15 細谷四方洋(28歳) 3位。
前年の東京モーター・ショーに参考出品したものを、このレースのために徹底的に改造したもの。ボディはアルミに変えられていた。



自由席が900円。旧国鉄の最低運賃が20円の時代であった。



Porsche 911
こちらは、グランド・ツーリングカー・レースから、#34 山西喜三夫 3位。一時はトップに立ったが、たちまち日産ワークスのフェアレディに抜かれてしまった。しかしながら、このストックに近い911の意外な活躍で、単調になりがちなレースが盛り上がった。プライベートにもかかわらず3位という結果は賞賛に値する。


Musée automobile de la Sarthe    1907 Corre Type H Sport

4cyl 2543cc 12hp MAX 80km/h.

 Correは、1901年に自転車選手であり自転車のメーカーを経営していた Jean-Marie Corre(1864−1915)によって設立された自動車メーカー。
 当初は、De Dion-Boutonのコンポーネンツを使って、単気筒の3輪車とクワドリシクル(軽4輪車)を生産していた。
 1907年には繊維メーカーを経営していた Waldemar Lestienneに乗っ取られることとなる。その際にブランド名を La Licorne(幸運を呼ぶと言われる一角獣)とした。その後は CITROENからエンジンの供給を受けていたが、大戦後の 1947年にエンジン供給を停止させられてしまう。これにより Bugattiによって買収された後にフランスのトラック・バスのメーカーである Berlietに売却された。

 この展示車は 1907年にル・マン近郊で開催された Voiturette(小型車)レースに参加している。

Le Mans Classic 2012 Little Big Mans

6歳から12歳までの子供たちが、大人たちが乗り回す本物のル・マン出場車の小さなエンジン付きレプリカでコースを1周するイベント。
パパママの応援の中、レーシングスーツを着飾って、もちろんスタートはル・マン方式。
欧州の自動車文化は深いですね。

日本では未だにレース=珍走団ですから。。。

嗚呼 60年代のお宝

古我信生氏が遺された貴重な部品や資料、N氏、H氏のコレクションの一部をご紹介する。


寺田陽次郎氏が持つピットボード。


これが現物です!


老舗デパートの箱の中は。。。


レーシングスーツ。


ブリヂストンのカーナンバーですが。。。


1966年の鈴鹿500キロに用意されたものです。




当時モノのカストロール神戸港から荷揚げしていたようです。



ホンダ純正部品のプラグ。アルミ缶に入っています。




ドライバーに配布された食事券。



レース参加の誓約書。



徳大寺有恒氏(本名:杉江博愛すぎえひろよし)のカーマガジン時代の名刺。




名著「がむしゃら1500キロ」非売の私家版。1969年再販時のもの。




富士スピードウェイの青焼き設計図。





貴重な封筒。。。


資料提供 ZAT company、Bob氏。

40年間眠っていた HONDA S600 Racing

 自動車雑誌カーグラフィック601号(2011/4)にて記事になっていた、HONDA S600 Racingである。元はラリー仕様で車高も高められていたが、それをオリジナルの車高に戻し、1964年に開催された第2回日本グランプリ用のワークス S600エンジン+5段ギアボックスを搭載している。

 

 元々この個体は、鎌倉市から歴史的建造物に指定されている古我信生氏(故人、写真中央で立っている人物。左は寺田陽次郎氏)*1のご自宅である洋館*2の裏の小さな小屋の中に保管されていたものである。他に数台の S600がブルーシートに包まれて鉄くずと化した状態で発掘された。その中にはホンダ技研が試作した貴重なエンジンやギアボックスが含まれていたのである。


ワークス・エンジンには、クランクシャフトのカウンターウェイトにタングステン・ウェイトが打ち込まれている。もちろん軽量化のためである。この方式は60年代の第1期F1のV12エンジンにも採用されている。
キャブレターも市販型のスロットル・バタフライを持つCVキャブに対して、シリンダーをスライドさせるレース用のCRキャブに換装されていることにも注意。



ワークスの5段ギアボックスだが、熱を持ちやすいのが欠点。冷却のために穴を開けている(↓部分)。2〜5速までがシンクロつき。



ホイールは標準とオフセットが違う。



ラリー仕様なので、当時モノの積算計が搭載されている。イグニッション下のダイアルのようなものはハザード・スイッチ。



タコメーターの周囲に手書きで書かれた数字に注目。
ワークス仕様のエンジンが驚異の 14,000rpmまで回ることを証明している。ライバルに見られてもわからないように手書きだったもよう。



裏庭に埋まっていた S600。全部で7台が土砂や落ち葉が堆積した下で発掘された。殆どが朽ち果てていた。クーペだけが小屋にあったので奇跡的にレストアされた。



発掘されたパネル。埋もれていたクルマを引きずり出そうとすると真っ二つに引きちぎれてしまったそう。



本田技研製のツインプレート・クラッチ。左上のプレッシャー・プレートにダイアフラムが使われていることに注意。日本初と言われている。


取材協力 ZAT company.

*1:1963年8月に開催されたリエージュ−ソフィア−リエージュ・ラリーに鈴木義一氏(同ラリーにて事故死)とホンダS500で参戦。その後、オストリッチ・カー・クラブ(OCC)を結成しレース活動を開始。1968年に開催された London–Sydney Marathonに弟子の寺田陽次郎氏と参戦した。

*2:1916年に三菱銀行の荘清次郎が建設した別荘。