HINO Contessa 900 in JAPAN GP 1963

記念すべき第1回日本グランプリにて日野コンテッサのGTレース結果は以下の通りだ。

GTレース(1300cc以下)13ラップ 平均速度78.05 km
1位 井口のぼる  DKW   46分09秒9 101.445km / h
2位 立原義次   コンテッサ 46分20秒7 101.151km / h
3位 吉田土岐夫  スプライト 46分29秒6 100.729km / h

最前列に並んだコンテッサNo.14(ダンハム)がまずリード、スプライトNo.3(吉田)コンテッサNo.6、DKW、MG、スプライトNo.4(石津)の順で第1コーナーを通過。1周してピット前を通った時にはコンテッサ No.14、スプライトNo.3、DKW、スプライトNo.4 の4台がトップグループで、ややおくれて2台のコンテッサとMGがこれを追う。ダンハムのコンテッサとDKWは8周目まで激しくトップをせり合ったが10周目にややおくれ、着実に追い上げてきたスプライトNo.4 に抜かれた。10周目のヘアピンでコンテッサNo.14はスピンして転覆、またスプーンカーブでMGはコース内側の砂地に突込み転覆。11周目にスプライトNo.4 はDKWを抜いてトップに立ち、そのまま60m の差を保ってゴールイン。ところが石津のスプライトはレーシングスクリーンを付けていたために失格を宣言され、DKWが1位と決定された。(CG、1963年6月号)


日野による展示資料によれば、“1963年第1回日本グランプリでは何のチューニングもせず外車勢も押さえ”と説明してあるが、これはまったくの虚偽であることが、当時日野からレースを委託された塩澤氏がその著書において明らかにしている。
塩澤氏たちが日野から支給を受けたコンテッサ900は12台。日野の部品部からは、強化したホイール60本、ホイール取付部の強化ハブボルトとナットのセットで150本。シャフトを強化したディストリビューター20本、日野実験部が試作した前進4速のギアボックス(市販タイプはコラムの3速)3基、これらレース対策用の部品が日野から支給されたのであった。他に塩澤氏のチームでステアリングのタイロッド、ショックアブソーバー、カムシャフト、シリンダーライナーが改造されてコンテッサに組み込まれていた。
とても無改造とは言えない、大幅な改造でコンテッサはレースに臨んだのであった。
コンテッサの部品取り付けは東京日野モーター品川支店サービス工場と同世田谷上馬のサービス工場にて行われたと記載してある。
エンジンのバルブ、ヘッド、各部マニホールドなどの研磨はドライバー自身が行ない、軽量化のためサイドウィンドウはアクリル製に交換してあった。もちろんアンダーコートも剥離されたのであった。

コンテッサ900の大幅な改造は当時のCGでも小林氏により指摘されていた。

3位でゴールインした立原のコンテッサ,及び10ラップ目に転覆するまでDKWとトップを争っていたダンハムのコンテッサは,最初に述べたようにレース用に大巾に改造されたスペシャルである。詳細な改造点は不明だが,ギヤボックスはフロアシフトの4速のものが付けられ,キャブレターは輸出仕様の2バレルが付いている。
うわさによればカムシャフトも特製だと言う。サスペンションは無論,硬く低く改造されていた。レース中のベスト ラップタイムは,立原の3´28˝2,平均103.818km/h
で,これは操縦技術によるのも勿論だが,標準の3速ギヤボックスでは決して出せない記録である。(S.K.)

ここまで指摘されていてもなお、無改造だったと言い張る日野自動車の展示説明は、企業倫理が欠落していると言わざるを得ない。
本来であれば、FIAの homologation を取得していない4速ギアボックスのコンテッサは車検の段階で失格だったはずである。


実際のレースは、予選でロバート・ダンハムが並みいる1300ccクラスのスポーツカーを抑え、900ccのコンテッサで見事ポールポジションを獲得した。
塩澤氏はエンジンとタイアの耐久性に不安であったが、ダンハムは最初から最後までアクセル全開で逃げ切る作戦を選択した。レース中ダンハムがリードをとり続けていたが、あと残り4週で塩澤氏の悪い予感は的中し、ダンハムはコーナーで転倒してリタイアとなってしまう。2位となった立原のコンテッサは突如飛んできたビン状のものにフロントウィンドウを直撃され、窓が無い状態でゴールしている。観客の投げたコーラの瓶が原因だったのだろうか?

1位でゴールして失格となった石津は、当時若者のファッションリーダーだったVANジャケット社長・石津謙介氏の御曹司であった。彼は車検後にフロントウィンドウをこっそり空気抵抗の少ないものと交換するという姑息な手段がばれて失格となったのである。塩澤氏による指摘が認められたのであった。

このレース終了後、日野自動車の株価は2円も上昇し、塩澤氏の努力は報われたという。しかし、彼自身は大赤字でメルセデス・ベンツ600を売って穴埋めしたと述懐している。





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