1961, HINO Contessa 900
水冷直列4気筒 OHV 893cc 35ps/5000rpm RR 最高速度110㎞/h
1961年デビュー、日野が独自開発した初の乗用車である。基本的には日野ルノー4CVと同じRRである。開発途中にはFF方式を模索したが、FF商用車コンマースの失敗により見送られた。
ボディは社内デザインで、アメリカ車を意識したテールフィンを模したものとなっているが、なぜかカタログでは“全世界で賛美されているイタリアン・スタイルを大幅に取り入れた”としている。
http://www.asahi-net.or.jp/~rf7k-inue/izen/no-1/conte/conte.html#c-siyo
ルノー4CVのエンジンはボアを広げ排気量もコンマース用から拡大893ccとしている。そのためシリンダーブロックの剛性に影響をおよぼし、剛性不足によるオイル消費不良を伴うこととなった。またテールフィンがエンジンルームにこもる熱量を増加させ、キャブレターのパーコレーション*1を誘発してしまった。エンジン写真、アルミヘッド右側にそびえる日立製キャブレター下に噛ませた分厚い遮熱版はパーコレーション対策。
エンジン始動時のチョークは、日本初のオートチョークとなっている。
展示資料によれば、“軽量構造に成功したため動力性能は抜群で、1963年第1回日本グランプリでは何のチューニングもせず外車勢も押さえツーリングクラス(700〜1000cc)で1位、スポーツカークラス(1300cc以下)で2位に入賞した”とあるが成績は事実として、実際の操縦性能はどうだったのだろうか。
当時、日野に委託されてレースに出場した塩沢進午氏が、その著書『日本モーターレース創造の軌跡』にて次のように述懐している。
後輪の後に、100㎏ものエンジンを積んだ大型のサイコロのような車を操ることに、「コンテッサ乗り」という言葉を、後に日産のレーシングチームの名手、テレビ解説者の田中健二郎が与えてくれた程に、この車はスピード走行させるのは難しかったのです。
最初の鈴鹿のテストで、私達は3台を転倒させてしまいました。車輪が、ホイルナットをハブにつけたまま脱落してしまうのです。エンジンを最後尾につけて後輪がすべり出すとき、後輪のタイヤが内側に入り込み、ボディが外側に傾いて行くという成り行きです。
後に、日野工場のテストコースを走行し始めたドン・ニックルズが、300m程直線を走った左カーブのコーナーで、いきなり転倒して最初で最後のコンテッサのテストを終わった例もあったのです。
アンダーからいきなりオーバーステアに転じるRR車特有の挙動は、パワーの無かった日野ルノーでは気にならなかっただろうが、よりパワーのあるコンテッサでは飛ばすと低いタイアのグリップもあり、それが顕著に表れてしまったのであろう。
カタログではこれに反して、安定したコーナーリング性能を誇示している。
http://www.asahi-net.or.jp/~rf7k-inue/izen/no-1/conte/c-arm.html
コンテッサに限らず、日本車の多くは本格的なレース初参加であり、クルマのホイルが外れてしまう事故が多発したようだ。タイアの性能も低く、いまやF1に供給しているブリジストンにもレーシングタイアなど無かったのである。
*1:エンジン停止時、主として排気マニホールドからの伝熱でキャブレターの中の燃料が沸騰して吹きこぼれ、エンジンが再始動出来なくなる現象。