HINO Contessa 1300 True Story

確かにデザインは良かったのだが、サーキットを走るとRRのコンテッサ1300は900と同様に馬脚をあらわすのだった。


1966年に開催されたJAF全日本ドライバーズ選手権に参加した日野コンテッサ1300クーペは、夏の晴れた日の富士スピードウェイ鈴鹿サーキットでは、エンジンがオーバーヒートして、市販のままでは全速で1周すらできないという体たらくだったのである。広告で謳っているような本格的な高速走行は無理だったのだ。
日野自動車よりレース運営を全面的に任されていたデル・レーシングの塩澤氏はその著書「日本モーターレース創造の軌跡」で次のように語っている。

コンテッサの高速サーキットのレースでの最大の問題点は、高速走行中のラジエターとエンジンルームの通風停止によるオーバーヒートにありました。そのため、デル・レーシングではラジエターの位置を、市販の最後尾から、最前部下面に変更しました。そして、フォーミュラーカーと同じ方式で、後部エンジンからパイプを通して冷却水をフロントラジエターに往復させました。エンジンルームの空気は、市販車の逆向きに流しました。その上、全く異なったクランクシャフトとトランスミッションギアを使っていたのです。これによってデル・レーシングのコンテッサ1300クーペは、一見市販車と変わりませんが実は全く違う方式の車でした。そして、どのレースコースでも、充分に戦えるように仕上げてありました。因みにこの当時、各社のワークスチームを相手にした全日本選手権に7回出走して。3回クラス優勝の上に3位以内に4回も入賞しているのです。