1965, HINO Contessa 1300 Coupe


水冷直列4気筒 OHV 1251cc 65ps/5500rpm RR 最高速度145㎞/h

セダン同様にミケロッティによるデザイン。2+2の4人乗りとし、ルーフを低くしてクーペに仕立てたもの。
そのボディの美しさは他の日本車と比べて抜きん出ていた。外国でもデザインの評価は高く、国際自動車エレガンス・コンクールで2度も受賞している。




エンジンは圧縮比を9.0に高めSUツイン・キャブレターでチューンしてある。前輪にはベンディックス・アケボノ製ディスク・ブレーキが奢られていた。手前に見えるのは最後尾に配置されたラジエター。


コンテッサの操縦性に関しては、当ブログに於いて nikemildさんから「スピードは出るが横風に弱くって意図せずよく車線変更しました」というコメントを頂いているが、同様の内容を1300セダンであるが、小林彰太郎氏が「CARグラフィック」64年12月号にてレポートしている。

次に操縦性について。ロックからロックまで約3回転のラック・アンド・ピニオン ステアリングは常に軽く、ラック両端のリターンスプリングに助けられたキャスターアクションは強く、手を放せばパッと元へもどるほどだ。回転半径は4.6m と小さく、不可能と思えるような狭い道でもUターンできる。ルノー系のリヤエンジン車は、方向安定がよくないのが定評だが、このコンテッサ1300も例外ではない。テストの日は相憎くかなりの横風が吹いていたが、80以上で直進を保つには絶えずステアリングで細かに修正することが必要であった。この日は前記のように定員5名乗っていたので前後の重量配分は37/63程度のテールヘヴィであったと思われる。
コンテッサ1300の後輪にはスタティックでも僅かのネガティヴ キャンバーが付いており、タイヤ空気圧は1.0/2.1kg/cm2 が指定され、スウィングアクスルリヤエンジン車の宿命である急激なオーバーステアヘの変化を極力防ごうとしている。この日、箱根のワインディングロードで試みたところでは、やはりオーバーステアの傾向が顕著に認められたといわざるを得ない。ステアリング特性はあるスピードまではニュートラルないし弱いアンダーだが、その限界を越えると急にテールがズルズルと滑り出す。その限界点はむしろコンテッサ900より小さいコーナリングパワーの下で達するように思われた。端的にいって、1300の操縦性はコンテッサ900やルノーR8より多少劣るといえる。この車の設計方針は、操縦性よりも居住性に重きを置いたと見られないことはない。後座席の後ろにVWのような広い荷物室を設ける必要上重いラジエターをエンジンの背後にもって行ったのもそのひとつのあらわれである。乗用車設計はひと口にいって無数の矛盾する要因の妥協である。居住性を多少犠牲にしても操縦性をよくすべきか、また逆に操縦性のために狭い車室で我慢すべきかは、性能第一主義のスポーツカーではないだけに実に微妙である。コンテッサ1300の選んだ方向の是非は、ユーザーが判断を下すだろう。

クーペの85万円という当時の価格設定はライバル車よりも高いものであった。あと3万円でコンテッサよりも速い日産フェアレディが買えたし、同じエンジン出力なら日産ブルーバードのSSが15万円も安い70万円で買えたのである。公務員の初任給が21,600円の時代に給料2カ月分に近い金額の差は大きかった。
この為か、日野ではライバル車と差別化するためにファミリークーペとして売り出していたが、コロナやブルーバードのシェアに食い込むまでにはいかなかった。
乗用車メーカーとしての社運をかけたコンテッサ1300も失敗に終わることになる。

この頃始まった輸入車自由化による自動車産業の弱体化を恐れた通産省の指導もあり、1966年に日野は乗用車の生産を諦めトヨタと提携すると発表する。FFを製造する技術がなく、最後までハンドリングに問題のあるRRを製造せざるを得なかった日野の悲劇とも言えよう。

1967年までの3年間に製造されたコンテッサ1300は約55,000台であった。



ダッシュボードに空調の吹き出し口が無いことに注意。この頃の日本車は皆そうだった。