中村良夫さんが語った、セナとプロスト


映画『アイルトン・セナ ~音速の彼方へ』 
なんと、今頃になってセナの映画である。
アイルトン・セナは故郷ブラジルのみならず、極東の地泡沫経済(バブル)で浮かれた我が日本でも絶大な人気があった。女性にも大人気で、「セナさま〜♪」などというCMもTVで流されていた。F1とは何かということもわからず(自分も含めてだが)、その中でも視聴率命のテレビの連中が放映権を獲得し、日本中がF1に熱狂していたのだ。
いまの若者のクルマ離れを考えると信じられないことだが……。
予告編でも描かれているが、当時マクラーレン・ホンダのチームメイトであったセナとプロスト犬猿の仲であった。チームメイト同士で接触事故を起こす事態となり問題化した。
フジテレビはもちろんのこと、日本のマスゴミはいつもセナを擁護しプロストを非難したが、自分はプロスト判官贔屓した。

故中村良夫さんもその著書でプロストとセナの確執に触れ、2人を評価している。

以下、『私のグランプリ・アルバム〜明日に語りつぐために』より。

 彼(プロスト)がフランスのルノーを去ってイギリスのマクラーレンに移ったとき、彼がワールドチャンプになって大量のお金が入るようになるとフランスの所得税の高さに辟易してスイスのローザンヌに居を移したとき、多くの、とくにフランスのジャーナリズムはプロストを叩いた。
 しかし今や、グランプリが走れるドライバーの一人であるというだけでモンテカルロに居を構えられるような異常(と私は考えるけれど)さになっている。
 これを批評するジャーナリズムの一片もないのが現実である。
 むしろ私は自らを信じ、「わが道をゆく」を続けてきたアラン・プロストの大ファンなのである。
 当然、アランはクールであってミーハー的ではなく、自ら主張すべきだと考えた自己主張は強いし、ジャーナリズムに対しても迎合的ではない。
 だからこそ、私は自らの腕と能力を信ずるホンモノのグランプリ・ドライバーたるアラン・プロストの大ファンなのである。
 しかも、アランがニキ・ラウダに次いでワールド・チャンピオンシップ第2位に決まったときのポルトガル・グランプリ、エストリルに私はいたけれど、当時のマクラーレンのチームメイトとして、アランは常に先輩ニキをたてていた。ニキ・ラウダ1984年チャンピオンシップは、アラン・プロストの礼節によって得られたものだ、というのが私の実感である。
 もちろん私は不世出の思考型ドライバーだったニキ・ラウダの大ファンであるし、決してアランをヨイショしているわけではない。

 ホンダが当時最強だったホンダ・ターボをマクラーレンに提供するようになってからは、私はしばしばアランと話し合ったし、新進のアイルトン・セナとも話し合った。
 御承知のようにアランとアイルトンは共にチームメイトでありながら時に犬猿であって、私としては全く信じ難いような光景がマクラーレン・チームの中でしばしば展開されていた。
 多くの人達、とくに日本のジャーナリストはセナを善玉、プロストは悪玉であるかのように書いていたけれど、私は責任は彼ら、すなわちセナやプロストではなく、チーム・マネージャーたるロン・デニスのリーダーとしての能力の無さが主因だったと考えている。
 ロンはとくにホンダとのコミュニケーション・ギャップなどを訴えていたけれど、これは理由にはならない。ロンにも初めからわかっていたハズのことである。
 プロストはクールであり、知的であるけれど、セナはパッションを解するブラジル人であり、かつ、勝つためには自らを枉(ま)げることも演技できるけれども、プロストにとっては、それは彼のプライドが許さないところである。
 もちろん基本的に、グランプリ・ドライバーとしてのアラン・プロストはすでに峠の頂に在り、アイルトン・セナのほうは峠の頂に達したところであるという世代のギャップもあった。

 1992年の現在、実力No.1のグランプリ・ドライバーをあげるとすれば、間違いなくアイルトン・セナである。クルマのコントロールのうまさ、レースのかけひきのうまさ、クルマから100%以上の能力を引き出すうまさ―どれをとっても実力No.1だと思う。ただし、私に言わせていただければ、それらのアイルトンのうまさは余りにも「レースに勝つために、唯、勝つため」に集中しすぎているように思う。80年代初頭、ブラジルからモータースポーツの本場英国にやってきたアイルトンは、おなじく新進のイギリス・ドライバーだったナイジェル・マンセルなどと、しょっちゅう接触事故をおこしていたし、後、ワールドチャンピオンの座についてからも、アラン・プロストと非スポーツマン的事故をおこしていた。余りにも「勝つ」ことにこだわりすぎていると思うのである。
 もちろん、レースは勝つために走るのであって勝つことに全力を集中することを非難しているのではない。しかし、勝敗以前に、基本的にレースは戦争ではなくスポーツであり、勝ちを前提としたスポーツマンシップは堅持されるべきであるし、スポーツマンシップの根源はジェントルマンシップ紳士道であるハズである。それが忘れ去られたら、もうスポーツではない。アイルトンは時にそれを無視しても「勝つ」ことにこだわりすぎると思うのである。
(中略)
あとでFISAの判決が出されて、アイルトン・セナの失格が決まった。
 私自身は、このFISAの決定は正しいと考えている。スポーツを忘れた修羅の場に、F1グランプリは絶対になるべきではないからである。F1グランプリと、格闘技をベースとするスポーツと混同されてもらいたくはない。

 このあと、ある出版社から頼まれてアイルトンにインタビューをした。
 彼と話していて私は強烈な一撃を食らったのである。
 それは彼が彼の「神」について語り出したときである。アイルトンによればアイルトンの神は、アイルトンだけの「神」であって一人しかいらっしゃらないのだそうだけれど、もちろん聖書はキリストのそれであって、何も特別な神様ではない。
 アイルトンが悩み苦しんだとき、それはたとえレースを走っている最中であっても、「アイルトンよ、こうしなさい」とアイルトンの神が導いて下さるのだと言っていた。
「ナカムラさんは僕なんかより何十年も長く生きていらっしゃるのだから、わかっていただけると思いますけれど……」と言われたときには、ホントにガァーンと一撃を食らったような感じだった。
 私の家の宗旨は真言宗だけれど、私自身にとっての仏典は一つの哲学書のようなものであって宗教的な何物ももtっていない。
 戦前戦中の多くの日本人は、私自身を含めて、この美しい山河をもった祖国日本という大きな拠りどころをもっていた。
 私は多くの友人達を戦争で失ったし、私自身、死にのぞんでまさか天皇陛下万歳と言う声は出せなかったけれど、祖国日本のために死ななければならないのなら、それに殉ずることはできた。大多数の日本人が祖国日本という拠りどころをもっていた。
 しかし戦後、一体そこになにがあるのだ!!と、アイルトンの言葉は私に連鎖して、強烈な一撃になったのである。
 現在の平均的マジョリティーの日本人の拠りどころは一体何であろう。金、富、自己顕示、もっと小さくなって家族? そんなものがほんとの心の支えになり得るのだろうか?
 アイルトンの神は、現在の平均的日本人にとっては全く無縁なのである。中嶋悟アイルトン・セナとの根本的な差がそこにある。

 私はセナのドライビング・マナーにいろいろケチをつけたりしているけれど、ヤッパ、セナは現在最高最速のグランプリ・ドライバーであることは決定的である。

 中村さんの文章を読む限り、セナには絶対に信じることが出来るセナだけの「神」という拠りどころがあったらしい。凡人である自分には想像できないが、それこそが「天才」と称される所以であり、誰にもマネできない超人的パワーの源だったのだろう。
 最後の瞬間にセナは輝ける「神」の手招きを垣間見たのだろうか……?

 セナは好きになれないドライバーだが、映画は必ず観に行くだろう。悔しいが泣けるんだろうなぁ(恥。