Goodwood Festival of Speed 2011 SPORTS PROTOTYPES Part7


1973 MATRA-SIMCA MS670B
V12気筒 DOHC 4Valve 2999cc 450ps/10500rpm

 世界で最も有名な耐久レースであるル・マン24時間は、フランスにて開催されているにも関わらず、レースはイタリアやドイツやイギリスに支配されてきた。60年代半ばまでは、フランスに再び勝利の日が来る時は未来永劫に無いと思われていた。既存のフランス・メーカーには3リッターのエンジンすら無かったからである。ところが 1967年に MATRAが自社開発の3リッターV12エンジンでF1に参戦したのだから、フランスのレースファンは狂気することになる。もしかして、ル・マン優勝も夢ではないのかもしれない。航空宇宙会社である MATRAが数年前から自動車業界に参入し、F1に参戦すると言うのは、非常に無謀で野心的なものがあった。彼らがル・マン優勝を目標としたのは1968年のレギュレーション変更によりスポーツ・プロトタイプの排気量が3リッター以下とされたからである。これにより自社のF1エンジンを搭載して勝つ可能性が出てきたからだ。これによりマトラはF1とル・マンを征するという2つの野望を同時に満たす可能性が出てきたのである。
 自社製エンジンが開発されるまで、マトラはフォーミュラーのF3、F2にチャレンジした。MS620、MS630( MS = Matra Sport)と呼ばれた最初のマトラ製プロトタイプ・スポーツは、鋼管スペースフレームにグラスファイバー製ボディー(66年はアルミ合金)を架装していた。66年、67年にかけて参戦したこのマシンは BRM製と FORD製のV8エンジンを搭載していた。
 1967年のル・マン参戦発表後直ちに、SIMCAから主任設計者として迎え入れた Georges Martinによるエンジンの開発製造が Moteur Moderne社に委託された。60°V12気筒、ギア駆動による DOHC 4バルブと、特に画期的な内容ではなかったが組立精度には高度な品質が要求された。短い開発期間を経て、V12エンジンは MS630のシャシーに搭載され、1968年のル・マンに投入された。テストでの不調を危惧した MATRAは、一時ル・マン辞退の報道もされたが、フランス国民の期待もあり、1台のみ参戦することとなった。しかし、予想に反し MS630は2日目の正午まで2位の位置をキープすると言う大健闘を見せ、観客を多いに沸かせたのである。レースが残り3時間で残念ながら不運が襲う。パンクが原因によるトラブルでリタイアとなったのである。

 高速性能と信頼性の高さに自信を増した Matra Sportは翌 69年のシーズンにクローズド・ボディの MS640とオープンの MS650の2つの V12エンジン搭載車を開発した。低空気抵抗の MS640はル・マンのような高速レースのスペシャリストである Robert Chouletにより設計された。悲しいことにこのマシンは、ル・マン24時間開催の2カ月前に行われた最初のテストで Hunaudiere Straight走行中に突然コースアウト、原形をとどめないほど激しくクラッシュし操縦していた Pescaroloは重傷を負い、マシンは修理されず葬られた。MS650は技術的に見るべきところが無いマシンであったが、新型の Porsche 908/2を参考としたオープンボディが架装されていた。エンジンは更に改良され、各バンクの2本のカムシャフトの間にあった吸気ポートはVの谷間に移設された。出力は 410psに向上している。その年のル・マンでは新型の MS650が4位でフィニッシュ、旧型の MS630クーペが5位、V12エンジンを搭載したバルケッタ・ボディのMS630が7位となり、エンジンの信頼性が証明された。66年のル・マン挑戦以来、最高の成績となったのである。
 
 Matra Sportによるモーター・レースへの挑戦は着々と実を結びつつあった。特にF1では。英国製 Cosworthエンジンを搭載していたが、Jackie StewartがMatraにより69年のF1チャンピオンとなった。こうなることは、67年に既に予想されていたほどであった。次はル・マンでの勝利であったが、5リッターのエンジンを搭載する Porsche 917や Ferrari 512が大きな壁として Matraに立ちはだかっていた。しかし、Chrysler Franceによる潤沢な資金による支援によりMatra-Simcaというチーム名で挑戦は続けられた。スペースフレームであった MS650は、少なくとも2台以上がフル・モノコックシャシーに改良された。MS660と称されたモノコックシャシーとロング・ホイールベースを備えた新型マシンは 70年のル・マンに間に合うよう開発準備された。
 偉大なるレースに備えるため、耐久レース世界選手権に挑戦していたが、結果は Servoz-Gavin / Pescarolo組に Sebring12hでの5位が最高で、有望とは程遠いものであった。優勝を目指した 70年のル・マン、420psに強化された V12エンジンは各部にストレスを抱えた信頼性の低いものとなり、エントリーした3台は8時間も持たずにリタイアとなった。同年後半の世界選手権レースでは、MS650sが Tour de Franceで1−2フィニッシュ、MS660は Montlhery 1000kmに於いて優勝と、良い結果は残した。翌71年シーズン、Matraは緒戦の Buenos Aires 1000kmにおける Ferrariとの死亡事故によりドライバー Beltoiseが3か月の出場停止となってしまう。これが後を引き、ル・マンにのみ出場となった。新型の MS660は事前の2度も行われた24時間耐久テストに於いて芳しい結果を残せず、ル・マンには1台のみが参戦した。予想されたことではあったが、5リッタークラスの Porscheや Ferrariが大挙して押し寄せる中で MS660は埋没し、18時間目にリタイアとなった。
 
 

 大いなる失望となった71年シーズンの翌72年、レギュレーション変更により、大きな壁であった Porsche 917と Ferrari 512はル・マンから閉めだされることになった。72年は3リッターのプロトタイプで戦うことになり、Matraにチャンスが訪れたのである。この年からル・マンが世界耐久レース選手権に組み込まれなくなったこともあり、Matraはル・マンに専念することとなった。MS660は 450psの MS670へと進化、バルケッタのボディーは、より洗練されたリアウィングを持つものとなった。Ferrariは Matraと反対の方針を貫いた。即ち、312PBを耐久レース選手権に集中させ、一戦一戦を勝ち進んで行ったのである。Enzo Ferrariは彼のマシンが、1000㎞または6時間の耐久レースでしか力を発揮しないことを感じとっており、ル・マンには参戦しないことを決定した(開催日10日前)。このことにより、Pescaroloと Graham Hillの操縦によって Matraがル・マンで1−2フィニッシュを決めることが現実味を帯びてきたのである。そして迎えたル・マン24時間レース、スタート直後に優勝候補の最右翼とされた Matraのエース・ドライバー Jean-Pierre Beltoiseのマシンが2周目にしてコンロッドを折損、リタイアとなってしまったのである。しかし、ライバルと称された Alfa Romeoも Matraの敵ではなく、レース展開は Matraのペースに支配された。結果は Matraの1−2フィニッシュで幕を閉じた。フランス車の優勝は 1950年の Talbot-Lago T26 GS以来、実に22年ぶりのことであった。

 翌73年シーズン、MatraはF1から撤退し、耐久レース世界選手権に専念することとなる。投入されたマシンは基本的な設計はそのままに、エンジンの出力向上(475ps)と細部の熟成が図られた、それが MS670Bである。ル・マンには専用設計された3台のシャシーが投入された。世界選手権が開始されると、Vallelunga, Dijon, Zeltweg, Watkins Glen と次々と勝利を収め、早々に成果を上げたのである。そして迎えたル・マン。この年は Ferrariが 312PBにて3年ぶりにル・マンに出場、Matraとの激しい戦いが予想されたのである。ル・マン仕様 MS670Bの大きな変更点は、空気抵抗を軽減するためにリア・タイアのサイズを15インチから13インチへと小さくし車高を低くしたこと。そしてギアボックスが耐久性を買われて PORSCHE製の5速になったことである。レース展開は予想された通り Ferrariとの抜きつ抜かれつの大接戦となった。結果は Henri Pescarolo / Gérard Larrousse組の優勝で終わった。2位の Ferrari 312PBに6周もの大差をつけた勝利であった。