The First Grand Prix - 1906 French GP Part3


優勝した Ferenc Sziszと Renault 90CV。アセチレン・ランプによるヘッドライトが取り付けられているので、レース前の写真と思われる。Sziszはハンガリーの生まれで、1900年にパリに移り住み、最初は Louis Renaultのライディング・メカニックとしてレースに参加、その後 Renaultのテスト・ドライバーとなっている。沈着冷静であった彼は当時の最良なドライバーの1人といわれている。 そのドライビングによりレース中 1km区間で 148.7km/hという驚異的な平均速度を記録している。


フィニッシュ・ラインを越える Szisz。


 史上初のグランプリに優勝した Renaultの勝因はドライバー Sziszの技量と、後から述べる安定した高速走行性能、そして圧倒的な耐久性と信頼性にあったが、もう一つの大きな要因としてタイアに秘密があった。
 創世期のクルマは、ホイールが車体についたままの状態でタイアとチューブを交換するようになっていた。馬の蹄鉄の釘によるパンクなら、注意深くホイールから取り外し、すり減って使えないのならナイフで切り裂いて手早く取り外し、新しいチューブとタイアを取り付けて、空気入れで空気を入れる。この作業に1本あたり10分以上かかっていたらしい。都市間レースが盛んだった頃は、このタイア交換が勝敗を左右していた。*1
 そこで Renaultが着目したのが MICHELIN新開発の脱着式リムを備えたウッド・スポーク・ホイールである。最初にワイアー・ホイールを装着していた Renaultは、レース間際になってこのホイールに交換した。史上初のグランプリでは、まだ未成熟な技術で作られたタイアは耐久性が低いもので、速いスピードと焼けただれたタールの熱に耐えきれず、次々とパンク、どのチームのクルマも4本のタイアを10〜12セットも交換しなければならなかった。参加した殆どのチームのクルマは、ホイールごとタイアを交換するという考えはなく、構造上もホイールが容易に取り外しできるようになってはいなかったのである。ライバルのチームはパンクすると熱いタイアをナイフで切り裂いて指でホイールから引きはがし、新しいタイアを装着して安全ボルトで留め、炎天下で手押しポンプで空気を入れ、再び大排気量のエンジンをクランクするという、途方もない苦労をしなければならなかった。ところが、Renaultが履いていた MICHELINの脱着式ホイールでは、パンクしても8個のナットを外せば、タイアをリムごと取り外せ、クルマの後部に積んでいる新しいタイアのリムを装着してナットを締めればすべては終わったのである。これにより、ドライバーとライディング・メカニックの疲労も最小限に抑えられた。因みに2位の FIATも MICHELIN製の脱着式リム・ホイールを備えていた。
 


ピットに於いて、脱着式リムによりタイアを交換するライディング・メカニック。 Sziszがパンクした右前輪のタイアを外している。史上初のグランプリでは、レース中にクルマに触れるのはドライバーと同乗するメカニックのみと規定されていた。地面に転がる石の大きさと数にも注意。



車検員がタイアに焼印を押すのを見守る Ferenc Szisz。当時のタイアには補強材のカーボンが混入されていないので白っぽい灰色をしている。



1906年、史上初のグランプリに優勝した Renault 90CV。大型のサーモ・サイフォン式ラジエターをエンジン後方バルクヘッドの位置に搭載しているのが Renaultの特徴であった。これによりエンジン・フードはスラントしたものとなっている。その一方で運転席は熱かったであろうことが想像できるし、その重量も無視できないものであった。シャシー下方に突き出た巨大なフライホイールにも注意されたい。エンジンは 12,975cc 2ブロックの巨大な4気筒2バルブLヘッド・エンジン。シングルのルノー製キャブレターとボッシュの高圧マグネトーによるシングル・イグニッションで105ps/1200rpmを発生した。駆動系はコーン・クラッチ及び独立した3速ギアボックス(トップは直結)を介して、プロペラ・シャフト(Louis Renaultによる発明)に動力を伝え、後車軸を駆動する方式である。ブレーキはギアボックス直後についたバンド式と後輪のドラム。タイアは34インチもあった。車重 990kg、最高速度約 160km/h。

 
 車体に付いたままで取り外せないホイールと比べるとミシュラン製脱着式ホイールは有利であったが、問題もあった。多くの参加車が備えるワイアー・ホイールと比べると、木製であったミシュラン製脱着式ホイールは、1つで9㎏も重くなるのだ。これではフォーミュラーの車重1000㎏以下を違反してしまう。ほとんどのクルマが制限重量ギリギリの1000㎏近くなっていたので、着脱式ホイールを使う余裕はなかった。
 そこで Renaultが考えたのは、リアのデフを取り払うことだった。コースを試走した結果、デフがなくても問題ないと判断したのだ。実際、コースはほぼ三角形を成しており、3ヶ所のヘアピン・カーブの他はストレートが多いものとなっていた。問題のヘアピン・カーブも1ヶ所は滑りやすい板を敷いてあったし、他の2か所もタールによる舗装もなくタイアが滑って空転するので、デフが無くても大丈夫と判断された。ただし、軽量化にも限度があり、 Renaultはリアだけ脱着式とした。FIATは4輪とも脱着式を採用している。

 Renaultは2位の FIATに対し、32分の大差で優勝しているが、実は FIATはSVの Renaultに対し、吸気効率の良い先進的なOHVを採用、16リッター・エンジンはRenaultよりも 15馬力大きい110馬力を絞り出していた。FIATよりも強力なエンジンを搭載していなかった Renaultが勝利した理由を元ホンダF1監督の中村良夫氏は次のように記している。

 このルノーは、すでに1902年のパリ〜ウィーン・レース984kmを、マルセル・ルノー Marcel Renaultが平均速度 62km/h強で走り切って優勝した 5.4リッター直列4シリンダー車の後継車のような形であり、エンジンは充分コンペティティブではあるけれどもズバ抜けて強力なものではなかった。しかし、その頃多用されていた後輪チェイン駆動をやめて、より静粛で確実なシャフト駆動形式(Louis Renaultの開発した特許)とし、チャネル・フレーム形式を半楕円リーフ・スプリングで支え、ルイ・ルノーLouis Renault自らの設計による複動式油圧ダンパー(Louis Renaultの開発した特許)を設けるなど、車両全体としての高速走行性能がすぐれていたのが勝利の主因であったと考えられる。(著書「レーシングエンジンの過去・現在・未来」より)



記念撮影される Sziszと Renault



表彰セレモニーの模様。

 このレースの裏で行われた賭博は競馬を模した興味深いものであった。ブックメーカーはゴール近くにスタンドを設けていた。Sziszへのオッズは200対1となっており、誰も優勝するとは考えておらず、ハンガリー人の仲間数人が Sziszに賭けただけであった。一方、FIATの Lanciaに対するオッズは10対1で人気だったが、彼は Sziszより遅れること2時間以上、5位でフィニッシュしている。

 史上初のグランプリを行ったフランスの意図は、フランス製自動車の優位性をアピールするものであった。実際、Renaultの販売台数は翌年には前年比2倍に膨れ上がった。しかしながら、参加したフランス・メーカー23台の内、完走したのはわずか7台だけだったことはあえて宣伝されることはなかった。
 翌年の1907年、グランプリはフランスとドイツの2か所で開催された。フランスGPにて Renaultは Sziszが改良された 90CVで FIATの Nazzaroに次ぐ2位でフィニッシュしたのを最後に、新型を開発することなく急速に旧態化していった。以後 Renaultは時折、速度記録に挑戦するだけで、モータースポーツに関わることなく2つの大戦を迎えることになる。その後 Renaultがフォーミュラー1の世界に戻ったのは史上初のグランプリ優勝から73年後の 1979年のこと。革新的な史上初のターボエンジンを搭載したF1となった。その後の活躍は周知の事実であり、現在はルノー・エンジンを搭載しなければF1を征することはできない時代となっている。

*1:いまのF1もタイア交換のタイミングが勝敗を左右している。