Goodwood Festival of Speed 2011 GARAGISTE GRAND PRIX CARS

 1960年代のF1グランプリは、55年ル・マンでの悲劇によりメルセデス-ベンツがレースから撤退し、事実上フェラーリ以外は、Cooper,Lotus,BRM といった英国の小さなチームが主役となっていった。
「能力と経験に優れた、かつレースに限りない情熱をもったプロフェッショナルな人達がグランプリを勝ち得るクルマを作ろうと意欲し、そして実際にグランプリの舞台の主役として躍り出てきたのを(私は)“戦後のグランプリの新しい波”といっているのである」(元ホンダF1チーム監督、中村良夫)
 戦前から続く、フロント・エンジンは早々に駆逐され、ミドシップ・エンジン、モノコックシャシーの時代がやってきたのだ。





1960 PORSCHE 718
空冷水平対向4気筒 DOHC 1498cc 150ps/7800rpm
 F2に挑戦したポルシェ初のフォーミュラー。成功した550RSKのエンジンとコンポーネンツを利用搭載している。1960年度はR R C Walker Racing Team の Stirling Mossにも貸与、ワークスには Jo Bonnier ,Graham Hill をドライバーに迎え、見事同年のF2チャンピオンシップを獲得した。
 PORSCHE MUSEUM GOH による参加。


R R C Walker Racing Team Porsche 718 drive by Stirling Moss



1963 LOTUS-CLIMAX 25
CLIMAX製 V8気筒 DOHC 2Vlve 1495cc 195ps/9500rpm

 1950年代後半、クーパーによって確立された、マルチ・チューブラー・スペース・フレーム形式、ミドシップ・エンジンというグランプリカーの設計的な常識は、早くも1962年ロータス25のモノコック・シャーシによって鋼管スペース・フレームを色褪せたものにしてしまったのである。
 アルミ合金板を応力外皮として使い、強度部材のすべてを板金リベット結合構成とする、軽くて強いモノコック・シャーシの構成は必ずしもロータスコーリン・チャップマンが初めて手がけたものではなく、1954年のジャガーDタイプ、1955年のBRMなどもすでにモノコック形式が試用されている。ただしいずれもテスト段階で終わってしまった。
 チャップマンとすれば、誰でも自由に買える、性能が一定である、クライマックス・エンジンを使ってグランプリを勝つためには、軽くて小さくてロードホールディングの良いシャシーを作る以外にはないと判断したのである。
 1961年、1.5リッター・フォーミュラーの最初の年はクライマックスFPF直4シリンダーの1.5リッター縮小版を使わざるを得ず、ロータス21の鋼管スペース・フレームをの旧タイプそのままとした。しかし62年、新しい本格的な1.5リッターV8シリンダーのクライマックスFWMVの開発が間に合うことがわかったとき、ロータス25のモノコック構成に踏み切ったのである。
 シャシー・フレームそのものは鋼管スペース・フレームの21にくらべて約5㎏の軽量化しか得られなかったが、鋼管フレームが必要とするアルミ合金の燃料タンクは、左右のモノコック・シェル内に航空機式の合成ゴムのバッグを入れるだけで足り、配管その他の部品が不要となって約25㎏の軽量化に成功しただけでなく、シャシーの捩り及び曲げ剛性は鋼管フレームにくらべてはるかに高くなった。
 剛性の高いモノコック・フレームに、後輪を長い2本のラジアス・ロッドで位置決めすることによって、すぐれた安定性と操舵特性を確保することができたのである。(中村良夫著『レーシングエンジンの過去・現在・未来』より)

 1963年度のF1グランプリに於いて25は、ウェーバーキャブからルーカスのインジェクションに替えられたクライマックスFWMVエンジンと Jim Clark により10戦中、7度の優勝でワールド・チャンピオンに輝いた。







1965 BRM P261
V8気筒 DOHC 2Valve 1498cc 220ps/11750rpm
 1962年のF1チャンピオンとなったBRMと Graham Hill は1963年シーズンの序盤に苦戦することになる。 V8エンジン搭載のP57は優位にレース展開を運ぶことができたが、先進的なモノコックシャシーの Lotus Climax 25 により影が薄くなってしまった。BRMが採用するスペースフレーム・シャシーよりもロータスモノコックの方が軽く剛性が高かったのだ。
 長くBRMの設計を手掛けていた Tony Rudd は自身の解釈でモノコックシャシーの P61 を開発した。アルミ合金板で構成されたロータスシャシーと異なり、ジュラルミン合金板を応力外皮とするシャシーを開発した。シャシー前部はバルクヘッドを構成しており、後部は鋼サブフレームにより、エンジン、ギアボックスとサスペンションをサポートするように設計されている。1.5リッターエンジンは200馬力前後までパワーアップされ、自社開発の新型6速ギアボックスが組み込まれた。P61 は63年の6月にデビューし、シーズン中の優勝は Graham Hill による2勝に留まった。問題はシャシーの柔軟性の欠如だった。
 改良された P261 は 64年の開幕戦モナコGPでデビュー。 Graham Hill は最速ラップを記録し優勝、チームメイトの Richi Ginther も2位となった。しかしチャンピオンシップはわずか1ポイント差でフェラーリの John Surtees が獲得。コンストラクターズチャンピオンも3ポイント差でフェラーリに奪われる結果となった。
 65年度はエンジンが220馬力に改良され、ドライバーも Richi Ginther に代わり、若い Jackie Stewart がチームに参加。BRMコンストラクターズチャンピオンで2位を獲得。チャンピオンシップでも Hill と Stewart はそれぞれ2位と3位になった。


グッドウッドでは、the Tasman Series に P261 で参戦した Richard Attwood が乗りこみ、ファンの喝采を受けていた。