殺人マシン トヨタ7

トヨタ7を誇らしげに展示しているトヨタの非道に関してはコチラに書いたが、福澤幸雄が事故死した時に乗っていたかもしれないクローズド・ボディの鮮明な写真がこれだ。


TOYOTA 7

写真では両脇にも車両があるが、これも屋根付きであるのだろう。少なくとも3種類が造られてテストされたらしい。


これが事故当時の貴重な写真である。
写真はヤマハのテストコース。奥から伸びる 1.4kmのストレートの第1コーナーに差し掛かるかなり手前でトヨタ7は急に直線でハーフスピンするという信じがたい挙動を起こし、路面に濃いタイヤのスリップ痕を残してコースを外れ、コース脇に設置されていた標識の支柱に激突炎上したのだ。
写真では燃え盛る様子が写されているが、中には福澤が乗ったままだった。トヨタ関係者は消火に駆けつけた地元消防団員が現場に向かうのを阻止し、一切の消火活動を封じてしまっていたのである。20分もの間、燃え盛る炎をトヨタ関係者は消そうともせずに放置していた。福澤幸雄がその炎に包まれているというのにだ。
司法解剖もされないまま、死因は脳挫傷とされているが、クルマが20分間燃えた末の焼死ではないかとの疑いも残されている。



こちらは、トヨタ7による川合稔の死亡事故現場の写真である。
1970年8月26日、鈴鹿サーキットを貸し切って行われたテスト中に起こった。
午後の試走中に4ラップ目で事故は起きた。右80Rを過ぎ、ヘアピン手前の110Rに差しかかかったところの路面には80mにも及ぶブレーキ痕が残っていた。大きな溝の向こう側に激突したマシンは宙を舞い、川合を地面に叩きつけた。即死であった。享年27歳。
残骸を調べたトヨタ側の言い分では「スロットルは全開であった」とのことだが、ドライバー達の間では「スロットルが戻らなくなった」とする説が事故当時圧倒的だったらしい。

この年、ライバルの日産は日本グランプリへの不参加を表明していたが、トヨタはなぜかトヨタ7のテストを行なっていた。いったい何故だったのか?
福沢にしても川合にしても死人に口なしでトヨタにとって「不幸中の幸い」となったのであろう。
「安全はトヨタの願い」というコピーも虚しい。


川合稔小川ローザと結婚したばかりであった。


Special thanks to Mr Ueno.