偉大なるドライバー Rudolf Caracciola Part18  Now he, too, has met the destiny of racing drivers


John Richard Beattie Seaman (1913 – 1939)

 14ラップ目、AUTO UNIONの Georg Meierがクラッシュ。17ラップ目に Seamanと Langはほとんど同時に給油とタイア交換のためピットインした。ピットインの際はプラグのオイル上がりを防ぐためにドライバーがエンジンをピットの 100m手前で切り、支持された地点にピタリと止める。3mずれるとドライバー自身でマシンを押し戻さなければならない規定があった。 Seamanも Langもピットインの達人だった。
 ピットインするとメカニックが手際良く仕事に取り掛かる。1台に3人が担当した。ドライバーに綺麗なゴーグルや水の入ったコップを渡し、スクリーンの汚れを拭き取り、燃料を入れる。この間にジャッキアップして後輪(4輪交換は稀だった)を交換する。そして電気スターターを構えたメカニックが手早くエンジンをかけてスタートする。
 25秒後に Langがスタート、5秒遅れて Seamanがスタートした。彼は1周後に再びトップになっていた。Seamanは1周ごとにスピードを上げた。Langは27秒遅れていた。22ラップ目、あと13ラップ! Seamanは Langの 50mほど前で La Sourceのカーブに姿を現した。あるベルギー人が最高ラップを出した者に 10万フランの賞金を出していた。“Dick” Seamanが使えたのかもしれない。雨がより酷い降りになってきた。路面は滑りやすいままだ。そして悲劇は起きた。
 彼は約 220km/hでこのカーブに進入した。Caracciolaには理解できないスピードだった。タール舗装の滑りやすい路面でしかも大雨。そして危険なパワースライドで曲がろうとしていた。明らかにオーバー・スピードだった。Seamanのマシンはタイアがタール舗装の緩んだところで滑り出した。後続の Langはブレーキを踏んだ。そうこうするうちに Seamanのマシンはスピンしてもの凄い速度で後ろから立ち木に激突、それから横向きになって再び立ち木に衝突した。マシンは4輪を接地したまま「く」の字に折れ曲がり停止した。衝突のショックで燃料パイプが裂け、燃料が灼熱と化したマフラーの上に流れ出した。数秒後には車体が炎に包まれた。Langが抜き去る時に焔が吹き上がるのをチラッと確認した。



Belgian Grand Prix, June 25, 1939. A tragic accident at the Spa-Francorchamps circuit during the Belgian Grand Prix put an end to the career of the popular British driver Richard Beattie Seaman. He had a 28 second lead going into lap 22, when he lost control on the rain-soaked track coming out of La Source and skidded sideways into the trees. The fuel tank punctured and the car caught fire. Richard Seaman died from his injuries the following day.


 Seamanは脱出しようとしたが、右腕が骨折し、腎臓には重大なダメージを受けていた状態では、それも叶わなかった。ショックで気を失い、熱い空気が揺らめくのも、ひどい熱にも気づくことなく体は炎に包まれた。
 土砂降りの中で La Sourceのコーナー付近にいた観客が駆けつけるのには数分がかかった。燃え盛る炎の中で Seamanはぐったりとしていたが、いつガソリンタンクが爆発するかわからず、誰1人彼の傍に近づこうとする者はいなかった。しかし勇敢なベルギーのレース役員が、突然燃え盛るマシンに向かって走り出し、煙が燻っている Seamanの体を引きずりだし、地面の上に転がした。救急車で医師が到着した時、彼の顔と体の大部分が物凄く焼けただれているのを見て青ざめた。
 事故から数分後に場内アナウンスが入った。
「ゼッケン26番、La Sourceコーナーで衝突、炎上しております。ドライバーは重傷です」
Neubauer監督は、そのアナウンスを聞いたときに、La Sourceコーナーがスタートから 13km地点であることを思いだしていた。
 Caracciolaたちはピットで立ち尽くしたまま、後報を待ちわびていた。彼らはマシンが燃えたことしか知らされていなかったのだ。ほんの2〜3ヶ月前に結婚したばかりの Erika(BMW役員の娘)が Caracciolaの横に立っていた。彼女は寒さと最愛の夫を襲った恐怖のために、蒼白になって震えていた。皆、最悪の事態を恐れていた。
 残酷なことだが、Neubauer監督はレースを見届ける任務を負っていた。Langがトップを走っていた。ところがあと2ラップというレース終了間際となって Langが現れない。「まさか事故か」監督に不安がよぎった。15秒遅れで Langがピットインした。ガス欠だった。ところが給油後にエンジンがかからない。キャブレターにガソリンが来ていないのだった。 Langが苛立ち気にガスペダルを踏んだり離したりを繰り返した。クルマは緩やかな勾配で緩々と動き出したがエンジンがかからない。レースは土壇場になってダメになるかと思われた。ところが突然エンジンがかかり Langは1位でフィニッシュした。2位の Rudolf Hasse(AUTO UNION)との差は僅か4秒だった。
「さあ病院だ。最高にブッ飛ばせ」監督は言い、皆は病院に向かった。
病院では何時間もかかり Seamanの手術が行われた。大腿部、腕、手、顔に大やけどを負っていた。炭と化した皮膚は取り除かれた。
病室に運ばれた彼は全身が包帯で覆われていた。少し経つと Erikaは横たわる夫に面会することを許された。ゼイゼイと息を切らせながら彼が必死で彼女に伝えた最後の言葉は、「今晩映画に……連れて……いけなくなった」
その言葉には、激しい痛みが感じられた。Erikaの体がふらついた。修道女が彼女の手を取り外に連れ出した。病院の殺風景な廊下で彼女は泣き崩れていた。

 レース翌日、1939年6月26日の真夜中すぎ、彼は妻の腕に抱かれて息を引き取った。Erikaは悲しみのあまり我を失っていた。Caracciola夫妻は彼女をホテルに連れて行き、彼らの部屋に近い彼女の部屋まで一緒に行った。Caracciolaの妻は彼女と一緒にいようかと言ったが、Erikaは眠りたいと言った。2〜3時間が経ったころ、ドアに恥ずかしそうなノックがあった。Erikaだった。Caracciolaの妻は彼女の弱々しい小さな体を腕の中に受け止め、頭を肩で支えて、Erikaに心ゆくまで泣かせて眠らせてやった。