偉大なるドライバー Rudolf Caracciola Part13 Italian Grand Prix


1938 Italian Grand Prix Monza

 1938年シーズン最後の European Championship Grands Prixはイタリアの Monzaで9月11日に行われた。Caracciolaたちは緊迫するこの年の政治情勢に悩んでいた。
 ナチス・ドイツは、3月にはオーストリアを併合していた。ヨーロッパでは誰もが戦争の危機に怯える毎日を過ごしていた。
 MERCEDES-BENZはイタリアでは暖かく迎えられたが、他の国ではあからさまな敵意を見せつけられた。「ナチ野郎」などと罵声が浴びせられ、腐ったキャベツがクルマに投げ込まれたこともあった。しかし、Caracciola達はレースを続けた。レースの世界では政治情勢に関係なく、あらゆる国のドライバーが参加していたのだ。
 イタリアGP当日は気温が暑く、とても秋とは思われない気候だった。MERCEDES-BENZはレースで最善を尽くすことはできなかった。チームメイト Seamanのエンジンは11周で不調となり、落伍した。Brauchitschもあまり良くなく、19周目に脱落した。Langも消えてしまった。Caracciolaだけが走り続けていた。
 1周目に彼のマシンはコースアウトした。彼は降りて、不自由な足の痛みにかかわらず、重いクルマをコースに押し戻した。ギアをローに入れ、クルマの後ろに肩を当てて力んだ。エンジンはバラつきをはじめ、やがて始動した。シートに這い上がろうとした瞬間、彼は右足に気の遠くなるような激痛を感じた。マフラーから漏れた焼けたガスが、彼の皮膚を焦がしていたのだ。
 凄まじい気力で Caracciolaは走り続けた。彼の運転席は非常に暑かった。ガスケットがいかれてしまったので、マシンの中は特に暑かった。排気の熱はギアボックスやガスペダルの隙間からもろに足に伝わってきた。ガスペダルにはアスベストが貼ってあったが、排気の熱は内側にアスベストを貼ったドライビングシューズの底にまで穴をあけ、彼の足の裏を焼いた。
 数周目、Brauchitschが交代した。その間、医師が彼の足に包帯を巻いた。ところが Brauchitschがもう充分だと言って1周でクルマを返してよこした。Caracciolaは再びマシンに飛び込み、灼熱と化したガスペダルを足の端で踏みつけた。彼は Nuvolari、Farinaに続き3位でフィニッシュし、3度目のヨーロッパ・チャンピオンとなった。1938年シーズンのドライバーズ・ポイントは1位から4位までが MERCEDES-BENZのドライバーが占める素晴らしい結果となった。


Tazio Nuvolari's AUTO UNION

 しかし、Neubauer監督は AUTO UNIONに完璧に叩きのめされたレース結果を苦々しく思っていた。特に Tazio Nuvolariに敗れた事実は消えなかった。いつも豪胆不死の達人である彼が、2度目の運転にもかかわらず、オーバーステアの激しいミドシップも立派にこなせることを証明したのは大きな事であったのだ。いつもなら会社のおごりでレストランで盛大に祝うところだったが、監督は祝う気になれなかった。
 その晩、監督は妻を連れだってレストランに入り、キャンティーを飲みながらフローレンス風オムレツという最初の料理を食べ終えようとしたその時、レストランのドアが開いて、Hermann Langの顔が現れた。
「へぇ、これは驚きだ。こんな所で会うとはねぇ」いつもの彼の決まり文句である。一瞬後、彼は妻と監督夫妻のそばのテーブルに座った。それから1時間半経つと、小さなレストランは MERCEDES-BENZ関係者で満員となった。誰もが Langの決まり文句「こんな所で会うとはねぇ」を真似して入ってきた。そして全員が、この店の最高の品を注文した。Caracciolaは妻に支えられながら足を引きずって入ってきた。いつもはお金に厳しい彼もケチケチしなかった。真夜中近くになって、監督は椅子を押し戻し、帰る準備をした。Caracciolaが事務的な声でこういった。
「Alfred監督、ここはあんたの支払いですよ」
「とんでもない」監督は言い返した。「今日、お前たちのやった成績で、会社がお祝いなんかするものか」
 この後は、てんやわんやの大騒ぎとなった。ちょうど監督がこの場を逃げようとしていると、Louis Chironが出鱈目なドイツ語で囁いた。
「Neubauerさん、お祝いの理由はあります。Seamanと Erikaが今日婚約したんです」
このパーティーは夜明けまで続くことになった。
 続く10月22日開催、ノン・タイトルの Donington Grand Prix。 Caracciolaは足の裏と脚を火傷で痛めたので欠場した。
 MERCEDES-BENZはレースの最終準備のため、1ヶ月前にロンドンへ渡った。ヨーロッパの政治情勢は緊迫化していた。この年の5月にナチス・ドイツによるチェコスロヴァキア侵攻計画が判明し、いつ両国が戦争となるか心配されていたのだ。そのような状況下でのチームの移動は困難を極めた。ロンドンに着くと正に戦争状態であった。ハイド・パークには塹壕が掘られ、バッキンガム宮殿の前には、兵隊が土嚢のバリケードを築いていた。9月28日の水曜日、練習走行が行われたが Neubauer監督の気はそぞろだった。ドイツの放送では連日軍歌しかかけていなかった。非常事態だ。お昼ごろに「すぐロンドンから立ち去るように」との連絡が入った。それからの数時間は火事場の騒ぎであった。オランダの港に向かうフェリーを抑え、ドライバーとGPマシンを運ぶ手配を準備させた。最悪、クルマや機材の接収を要求された場合に備え、GPマシンに火をつけるように指示をした。Seamanは英国人だったので婚約者 Erika Poppとロンドンに残ることにした。彼女はドイツ人だったが、英国に残ることを選んだのである。これが彼らとの最後の別れになるかもしれないと監督は思った。港は群衆でごったがえししていた。監督は MERCEDES-BENZチームが無事に港をでたのを見届けると、ホテルへ歩いて帰った。途中、夕刊を買うと見出しを読んだ。
「イギリス、フランス、イタリア、ドイツの首脳 明日ミュンヘンで会談」
戦争の危機は回避されたのだ……。
 4週間後、レースは予定通りに行われ、監督は Seamanと再会した。Seamanは3位に入賞した。

 この年の11月9日夜から10日未明にかけて、ドイツ各地では「水晶の夜」と称された、反ユダヤ主義暴動が起こった。あわせて177のユダヤ教会と7500のユダヤ教徒の商店や企業が破壊され、ユダヤ教徒は殴られたり、辱められたりした。運の悪い者はそのまま殴り殺された。少なくとも96人のユダヤ教徒が殺害されている。破壊され砕け散った窓ガラスが月明かりに照らされて水晶のように輝いたことから水晶の夜(Kristallnacht)と呼ばれた。実際には殺害されたユダヤ教徒のおびただしい血や遺体、壊された建造物の瓦礫等で、現場は悲惨なものだったという。ナチス・ドイツはこのような暴動を「煮えたぎる民族精神の正当な蜂起」などと正当化した。

 Caracciola夫妻がスイスに住んでいることをナチス・ドイツ当局は問題視していた。ドイツに住んでいないドイツ人は愛国心が足りない、総統への忠誠心が足りないと彼らは考えていた。Caracciolaらがレースで勝利すれば、それは祖国ドイツの勝利であり、もし負ければ……そんなことは許されなかった……Caracciola達の私生活に対する当局の干渉は耐えられないものになっていったのである。