偉大なるドライバー Rudolf Caracciola Part15 XIII - GRAN PREMIO DI TRIPOLI - Italian Job
戦争の危機が迫る中、1939年シーズンはフランス Pau Grand Prixで幕を上げ、MERCEDES-BENZは前年の雪辱を果たした。Caracciolaは 29周もの間トップを激走したが、幸運の女神は足早に彼の前を去ってしまった。オイル系統のトラブルでピットインし、その間に7週遅れとなってしまう。試に Caracciolaはコースに復帰したが、1周でリタイアとなった。Hermann Langと Brauchitschが1-2フィニッシュとなった。Brauchitschは最速ラップ・タイムを叩き出していた。
Tripoli Grand Prix, May 7, 1939: Rudolf Caracciola finished in second place in a Mercedes-Benz 1.5 liter W 165 racing car.
前年 1938年9月、MonzaでのイタリアGPの終わりに、パラシュートの製造で一財産を作ったイタリアのスポーツ部門の首脳部は Neubauer監督を除外して 39年の Tripoli Grand Prixを排気量 1.5リッターに制限すると通告してきた。この理由は明白であった。ムッソリーニのイタリア勢はヒトラーの“Silver Arrow”の一人勝ちを許しておけなかったのだ。1.5リッター・クラス、所謂 Voituretteが発足して以来、フランスとイタリア勢はこのクラスを支配してきた。人気の上昇に注目した Neubauerは MERCEDES-BENZも Voituretteも作るべきだと提案したが本社の答えは「利益が出ない」ということであった。高級車の MERCEDES-BENZが小排気量のエンジンを造るメリットはなかった。
しかし、この報せが Neubauer監督から取締役の Sailerに伝えられると状況は一変した。8ヶ月で新型マシンを開発するには時間がなかった。突貫工事で18ヶ月というのが過去の成果だった。8ヶ月で仕上げるには不可能に思えた。
監督が Stuttgartに戻ると、すぐに Sailerはスタッフを召集し事情を説明した。
「イタリア勢に締め出され、このまま引き下がる手はない。新しい 1.5リッター車を造ってほしい。完成の暁には特別賞与を出すつもりだ」
それからの数か月、 MERCEDES-BENZの工場には熱狂的な活気が溢れていた。研究部への立ち入りは禁止され、特別通行証をもった関係者だけが出入りを許された。作業場は有刺鉄線で囲まれた。技術関係の全員が燃えるような情熱をもってこの仕事に取組み、不可能を可能にしてしまったのだ……8ヶ月以内に 1.5リッターのマシンが完成した。W165の誕生である。
Mercedes-Benz W165
技術者とメカニック全員の情熱によって作り出された新型GPマシンは、V8 DOHC コンプレッサー過給 1495cc 254ps/8250rpmのエンジンを備え、ショート・ホイールベース、5段ギアボックス、全輪独立懸架、大型のアルフィン・ドラム・ブレーキというスペックであった。ボディは W154を小さくしたようで、気品があり、オモチャのように可愛らしく、 Caracciolaが隣に立つと指の先がちょうどボディに触れるくらい車高が低かった。
トリポリに向けて船積みされる前に Hockenheimringで行われた簡単なテスト走行の結果は満足すべきもので、敵情査察に来ていた AUTO UNIONのスパイ Sebastian*1はテスト走行終了後に藪から出てきて「おめでとう、Neubauerさん。8ヶ月の新車とはね。これはなかなか大変なことだ。ひとつ約束できることは、レースでは AUTO UNIONの連中は全部 Mercedesのために御祈りを続けるだろうってことだ」と祝福した。
1939 Mercedes W165 waiting to be shipped for the tripoli gp.
トリポリGPには2台の W165が投入された。そのうち1台はギア比が低く、加速が良いように作られていた。しかしエンジンがすぐに最高回転数に達するので、最高速度は限られていた。これは Caracciola用だった。
Hermann Langのマシンは逆にギア比が高い仕様だった。つまりスタートは遅いが、エンジンを酷使することなく昨年のマシン W154よりも最高速度がでることは公然の秘密であった。Langはライバルの Caracciolaに比べて自分が不公平に扱われていると思い納得しなかったが、最後には先輩に譲歩した。Langはトリポリの恐ろしいまでの高速コースでは自分の方に分があると悟ったのである。
下馬評では MERCEDES-BENZ有利とされてきたが、練習走行が始まると予想外にも Maserati 4cl streamlinerに乗る Luigi Villoresiが最速ラップを叩き出していた。Continental製のタイアも不安だった。路面温度が50度にもなる熱い砂漠地帯のサーキットでタイアがグリップするのか、監督には自信がなかった。トレッドも厚すぎるように見えた。タイアをテストしたかったので監督は Langにテスト走行を頼んだのだが、予想外にも Caracciolaがスターティンググリッドを Langに譲るための仕打ちだと絡んできた。監督は2人をなだめ、結局は Langがほんの少し Caracciolaを上回るタイムを出してポジションをアップさせてしまった。タイアの安全性を確認すると監督は作戦の概略を説明した。
「 Langがトップでチームを牽引する。全開で走りタイアを1回交換する。 Caracciolaがその間 Langをカバーし、攻撃を控える。もし Langが落ちてきたらトップに立つ。それまでに相手方はくたびれている」
それを聞いていた2人のドライバーは納得のいかない顔つきであった。この時、取締役の Sailerが2人を諭すように言った。
「一言いっておきたい。君たち2人が優勝を心配するのはよくわかる。しかし、これだけは忘れないで欲しい。君たちの個人的な名声よりももっと大きなものが賭けられているということだ。設計部や技術部、整備陣の何か月ものきつい仕事がこのクルマに注ぎ込まれているのだ」
2人とも感動して聞いていたが、これで個人的反目が解消されるとは Neubauer監督には思えなかった。
The Tripoli GP start scene.#16 Hermann Lang,#24 Rudolf Caracciola.
1939年5月15日レース本戦。イタリア、フランス、イギリスから参加した28台ものベテラン勢の中で MERCEDES-BENZの2台は弱々しく見えた。トリポリ植民地の Italo Balbo総督がスタート・フラッグを持って現れた。彼の脇の信号灯はまだ赤だった。
Langが監督を手招きした。
「総督の旗と信号と、どっちでスタートするんですか、Neubauerさん」彼は監督に尋ねた。
「ちょっと待ってくれ」といって監督はレース役員室へ入り、2分で戻ってきた。
「信号灯だ」Neubauerは叫んだ。
Balbo総督が旗をゆっくりと上げた時、29人のレーサーの目がそれに集中した。Hermann Langだけが1秒毎に点滅するオレンジ色の信号灯を見守った。そして最後の瞬間になった時、1人のイタリア人役員が Balbo総督の上着を引っ張った。一瞬、総督は旗を振り下ろすのをためらった。29人のドライバーもスタートしなかった。しかし、Hermann Langは緑色の信号灯が点灯するやいなや飛び出し、1秒半他車をリードした。
作戦通りにレースは進行した。Caracciolaは長持ちするタイアを装備し、燃料補給だけでピットインは終了するので、 Langとの差は相殺できるものと考えていた。ところがレースには思いもよらぬ出来事が起きる。燃料を入れるだけで済むだけのピットインが、Langのマシンに燃料補給しタイア交換するよりも時間を食ってしまったのである。不運にもメカニックが電動スターターを差し込む穴を見つけられなかったのだ!
Langは 40ラップまでトップを守った。数台のクルマを追い越してそれらを周回遅れとし、2位にいた Caracciolaを抜いてから、彼は考え直した。2人は個人的に反目してはいたが、Langはベテランの Caracciolaを尊敬していた。彼に屈辱を与えることはどうしてもできなかったのだ。
Langはあえて速度を落とし、Caracciolaを先に行かせてゴール・ラインを1位で越えた。これは彼にとってトリポリGPにおける3年連続の優勝であった。Caracciolaは3分遅れで2位となった。Maserati 4cl streamlinerに乗る Luigi Villoresiがゴール・ラインを通過したのは、それから10分以上も経っていた。
MERCEDES-BENZにとって圧倒的な勝利であった。2代の新型GPマシンは他の出場者を寄せ付けもせずゴールした。
「2人のベスト・レーシング・ドライバーと2台のベスト・マシーン」とBalbo総督は祝福した。
00:43頃、Hermann Langだけが Balbo総督が旗を振り下ろす前にスタートしているのが明確に記録されている。
*1:元MERCEDES-BENZのメカニックで Neubauer監督とは旧知の仲。