1957 Sebring 12 Hour Endurance Race Part 4 Ferrariに起きた不幸 そして Peter Collins


Ferrari 315 S de Portago / Musso


 Fangioが Ferrariから去った後、モデナの工場ではピリピリとした空気が張り詰めていた。Maseratiに移籍した Fangioに勝つこと、それがコメンダトーレからの指示だった。Fangioの後釜となった若干26歳の若きドライバー Castellottiの肩には、重い重圧として伸し掛っていた。1957年3月14日、Castellottiは Fangioが乗ることになっている 4.5リッター Maseratiに対抗するため開発された新型 Ferrariをテストしていた。

 Enzo Ferrariが見守る中 Modena Autodromeで行われたテスト走行。ところが Castellottiが操るマシンはカーブを曲がりきれずクラッシュして大破した。彼の遺体は車から 90mも離れた場所で発見された。頭蓋骨骨折による彼の痛ましい死は、レースまで後1週間という大事な時だという Ferrariチームに暗い影を落とした。世界的に有名で人気のある Ferrariであったが、事故の原因の1つが Fangioが移籍したことによるドライバーへの重圧であったことは決して認めることはなかった。何れにしても、Fangioとフランス人の Jean Behraが 4.5リッター Maseratiに乗るという Ferrariにとって不利な状況は変わることはなかったのである。

 Ferrariのチーム・リーダーであった Peter Collinsは新型の Ferrari 315 Sに自信を持っていた。開幕戦のアルゼンチンで Maseratiはリタイアとなり、Ferrariが優勝していたからである。

 レースの僅か数日前にFIAは新しい規則を追加したルールブックを発行した。スペアタイアは事前に持ち込んだもの以外はレース中に使用するべからず、という内容であった。

 これは Corvetteなど他のいくつかのクルマには影響を及ぼさなかったが、Ferrariと Maseratiにとっては重大な変更となった。なぜなら彼らのマシンは、前後のサイズの違うタイアが使われていたからだ。パンクしたりホイールが破損してピットインした際、そのサイズの変更を一切禁止されたからである。その場合レースを放棄するしか選択の余地はなかったのだ。

 すぐに Ferrariの Peter Collinsと Maserati関係者、そして主催者の Alec Ulmannによる緊急会議が行われた。FIAの規則について博識だった Collinsは新しい附則について、そのような変更が採択される場合には全てのレース参加チームによる満場一致が原則であることを指摘し、その附則の発行が無効であることを証明した。

 影響力のある Collinsは、Sebringでコーナーのガードとして使用される 55ガロンのドラム缶が、とても危険なモノであることも主張した。しかし、この抗議にもかかわらず Sebringでは数年後もドラム缶が使用され続けられることとなる。