1957 Sebring 12 Hour Endurance Race Part 5  Alfonso de Portago


 マスコミ報道を考慮したレース運営は、Sebringを徐々に人気のあるレースへと育てていった。Hendricks Fieldと称された、爆撃機 B-17の基地を1周 8.3kmのサーキットに仕立て、57年以前は観客3万人を収容できる記録を誇った。

 57年当時の Sebringは人口 7,000人の小さな町だった。レースから毎年経済的な恩恵を受けていたが、町の中には、この町が毎年開催されるレースに参加している‘米語’を喋れない連中によって騒音や騒動を起こされることにより平和が脅かされている、と思っているグループもいた。

 一部の住民の中には、Pontiacのディーラー工場に陣取る Ferrariと町の中心にある、Weaver Auto Parts garageに陣取る Maseratiに対し、快く思わない連中もいた。レース開催までの数日間、11kmも離れたサーキットでテストを行うために、彼らは爆音を撒き散らすレーシングカーを自走させていたのだから、それも無理のない話ではあった。しかし大多数の住民にとってレースは大歓迎された。普段は誰も知らない小さな街が、レースの1週間だけ全米から注目を集めることになるのだから。

 保守的な住民の間では、町の若い女性たちがイタリアからやってきたメカニックやドライバーにナンパされることを極端に警戒していて“あなたの奥さんや娘さんに鍵をかけるように”という看板を通りに立てさせたりしていた。

 数台の Ferrariと Maseratiのマシンがメカニックによって運転されてダウンタウンからサーキットへ往復していた。その道路の両側に見える風景は、1920年代に起きたフロリダの不動産ブームの時に建てられた老朽化した空き家ばかりだ。朽ち果てた門や古びた看板が、熱狂したあの時代の‘この世の楽園’の悲しい結末を無残にも晒していたのだ。

 サーキットでは、Ferrariドライバーの Alfonso de Portagoが地元警察に捕まったという噂が広まっていた。スペイン出身の公爵である彼が、町の制限速度を少しオーバーしたことにより警察に捕まったが、彼が英語を含む数ヶ国語が話せるにもかかわらず、英語が理解できないふりをした、というものであった。Alec Ulmannの助けと山のような現金の保釈金により、彼は刑務所から釈放された。この年が彼の最後の Sebringレースとなってしまった。この2ヶ月後に行われた Mille Migliaにて悲劇的な最後を遂げるからである。彼の Ferrariはコントロールを失い道路を飛び出し、数人の子供を含む観客9人を巻き込んだ痛ましい事故だった。



Portago and his wife, Carroll.