ファン・マニュエル・ファンジオ 生誕100年 Part3

 惨事のトレスアロヨスのレースを後に意気消沈してバルカルセに帰ったファンジオを待っていたのは友人の励ましであった。彼はいつのまにか故郷バルカルセの英雄となっていた。「あいつをマトモなマシンに乗せてみろ、絶対にやるぜ!」バルカルセの友人達は寄付を募り、とても豊かとはいえない農家までもが孝行息子であったファンジオにお金を寄付した。やがてファンジオに初めての勝利が訪れる。1940年のグランプレミオ・デル・ノルテでのことだ。
 アルゼンチンのブエノスアイレスとペルーのリマの間、約1万㎞近い距離(もちろん悪路である)を往復するこのレースは人とマシンには過酷な試練だった。ファンジオは友人の古いシボレーのクーペで参戦した。後部座席を取り払い、大容量の補助燃料タンクを増設、スペアのホイールやハーフ・シャフト等、部品も満載した。クルマは丈夫だったが非常に重くなったため、山道でブレーキを冷却するために水をかける特別な装置も取り付けていた。もちろんサスペンションも強化されていた。燃料系統は高地での薄い空気への対応を施してあったが、ファンジオとコ・ドライバーは頭が割れるような頭痛に悩まされた。親切なボリヴィア人が「コカの葉を噛め」とくれて、やっと頭痛は解消した。コカの葉は麻薬コカインの原料である。レースはファンジオのシボレーとライバルのフォードの一騎打ちとなったが平均時速86.1㎞/hでファンジオは優勝した。
 故郷バルカルセに帰ったファンジオは町の人たちに大歓迎された。人々にもみくちゃにされたファンジオは市長の前に押し出された。市長は巻紙を出し、おもむろに大声で読み上げた。ファンジオの名前が、バルカルセ名誉市民に登録されたのだ。市長の右側にはよそ行きの服を着た父親が立っていた。父の目には光るものがあった。そしてすまなそうに顔を赤らめて、まわりの人たちの握手に答えていた。母親はレースの間中ずっと息子の無事を祈り続けていた。その祈りは息子がレースを引退するまで続いていた。