ファン・マニュエル・ファンジオ 生誕100年 Part2

 ファンジオは1911年6月24日、アルゼンチンは首都ブエノスアイレスから350㎞ほどれた、バルカルセという小さな農業の町で生まれた。その日が聖ファンの日だったのでファンという名前がつけられたという。父親は幼い頃イタリアから移民したペンキ職人、ファンジオは6人兄弟の4番目で、サッカーに夢中だった少年は自動車工場の見習いメカニックとして働き始めた。21歳で徴兵、除隊後に友人と故郷バルセルカに小さな修理工場を開いた。
 ファンジオのレースデビューは1934年のこと。最初に勤めた修理工場の社長の友人が所有する FORD type A を借りだしたのである。ロードレースに出場したが、結果はコンロッドが折れてリタイアとなった。


右端に見える#19がファンジオのマシン。

 苦労してお金を貯めたファンジオは FORD type A を購入。大きなキャブレターを取りつけ、圧縮比を上げ、シャシーから余分なものをはぎ取り軽量化させたスペシャルを仕立て上げた。ついに1936年12月31日、その日はやってきた。レース前夜に点検をすると電気系統の故障が発見された。ファンジオらは徹夜で修理することとなった。翌朝、赤くはれた眠い目をこすりながら、ファンジオは髭も剃らずに7人の友を乗せてスタート地点へぶっ飛ばした。しかし、ファンジオらがサーキットに到着した時には、とっくのまえにレースが始まっていて、1周でマーシャルに停められて失格を宣告されてしまったのである。この騒動で両親に隠してレースに出場したことが知られてしまい、父親の癇癪は炸裂、母親は心配して取り乱していた。ファンジオはしばらくの間、大人しくすることにした。


FORD type A Special


FORD V8 Special 助手席のメカニックがコーナーリング性能を上げようとして大きく外側に体重をかけている。ファンジオもまだ若く、禿げていなかったことに注意。

 そうは言っても、ファンジオのレースに対する情熱は抑えきれるものではなかった。弟に協力してもらい、再びレーシングカー制作にとりかかった。それは1934年型フォードのシャシーに、85馬力のフォード製V8エンジンを搭載していた。軽いこともあって、このフォードV8スペシャルの最高速度は182㎞/hにもなった。
 1938年3月27日に行われたネコチェア・グランプリにフォードV8スペシャルで出場したファンジオは予選で好タイムを残し、アルファ・ロメオ3.8ℓに乗る当時のアルゼンチンでは有名なドライバーのアルサーニと同じスターティング・グリッドの最前列に並ぶことができた。結果は決勝レースで7位となったが、スタート直後に泥でスリップしたアルファ・ロメオを操るアルサーニを出し抜きトップを走ったことは、ファンジオに大いなる自信を与えることになる。もっと良いエンジンを手に入れて運を味方につければ、優勝だって不可能ではない。そうファンジオは確信したのであった。
 同じ年の11月13日、トレスアロヨス300マイル・レースにファンジオは出場したが、そこでレースの死亡事故を初めて見ることになる。1周13㎞のコースは、何週間も雨が降らず、酷い埃で視界が2〜3メートルと遮られた危険な状況の中での悲劇だった。

 5週目に、私は8位だった。コース上には黒旗を持った男の影が浮かび、懸命に旗を振って、レースを中止させようとしていた。私はスピードを落として停まった。埃の中から、友達の影がぼんやりと浮かび上がった。
「チェッ、残念だなあ!」ゴーグルをはずしながら、私は言った。「ようやく埃に慣れてきたのに……」
「なんだって?」友達は言った。驚きで息もできないようであった。彼は支えるように私の腕をつかんだ。「じゃあ、なにが起きたか知らないのか?」
 レースでなにが起きたか聞いて、ひどい暑さにもかかわらず、私は背筋が寒くなった。5人も死んだのだ! それも私から3メートルと離れていないところで。1台のフォードが、ピットを見つけようとして、歩くようなスピードに落とした。後ろから飛ばしてきたフィアットがこれに追突し、フォードは横転した。そこにもう1台が真っ直ぐ突っ込んだ。メルセデス・ベンツは間一髪これを避けたが、マーティンはルイスのマシーンに激突し、ルイスのマシーンは宙に舞い、マーティンとメカニック*1は大地に投げ出された。
 ルイスはほとんど無傷で、自動車から飛び降りた。ところがピットと観客席の仕切りの有刺鉄線に引っ掛かってしまった。彼は観客の1人に手伝ってもらい、引っ掛かった有刺鉄線を外そうとあがいた。ガソリンの火がグワッと広がり、ルイスと観客を呑み込んだ。
 私が走っている間に、こんな惨事が起きていたのだ。そして、私が犠牲者となった可能性もあったのだ。父と母が私の無事を確認したと知るまで、私は気が気でなかった。しかし、私は良い勉強をした。サーキットで死を見たのは、これが初めてであった。後には、何回も死を見た。もっと身近に見た。
 その晩、私は黒く焼け焦げたレーシングカーを見た。ゴムの焼けた匂いが、あたり一面に広がっていた。赤い埃の上に、オイルが黒々と垂れていた。それまで自動車というものは生きていて、人間の思いどおりに動くものだと思っていた。ところが、そこにある自動車は死んでいた。見るも恐ろしい光景だった。しばらくの間、私は拳を握りしめていた。死んだ自動車はたまらなく嫌だった。(自伝より) 

*1:戦前の自動車レースはクルマにメカニックを同乗させることを義務づけることが多かった。