Le Mans Classic 2012 2 GRID 1949 - 1956 Titleholders
1949 Skoda Sport 1101
Škoda 1100cc 4cyl.
社会主義国チェコ・スロバキアの Skodaが戦後すぐにモーター・スポーツに復帰したとは驚きである。1950年のル・マンに参戦。120ラップ目にエンジンの不調でリタイアとなっている。
Jacques Brault #37 Fiat 1500 Special as raced to 47th place(Did not finish) at Le Mans 1950 by Jacques Brault - Louis Paimpol.
Fiat 1500cc 4cyl.
1954 Kieft Climax 1100
Coventry Climax 1098cc OHV 4cyl 72hp/6400rpm MAX 176km/h.
英国 F3選手権のチャンピオンとなった Kieftが、1954年にロードゴーイング・スポーツの完成にこぎつけル・マンに挑戦したもの。鋼管チューブラー・フレームに4輪独立サスペンション。搭載されたエンジンは、Coventry Climax社製。
54年のル・マンでは86ラップ目に総合36位でリタイアとなっている。
Equipe Monopole Course Panhard-Monopole X86
DBや CDの他にも、PANHARDのメカニズムをベースにしたマシンでル・マンに参戦した強者がいた。Equipe Monopole Courseである。
彼らは独自に、50年代のSF映画の魅力的な宇宙船風の空力ボディを架装してル・マンに持ち込んでいた。
エンジンは勿論、空冷水平対向2気筒 OHVである。
1956 Panhard-Monopole X86
Equipe Monopole Course #49 Panhard-Monopole X86 as raced to 51th place(Did not finish) at Le Mans 1958 by René Cotton - André Beaulieux.
Panhard 745cc Flat-Twin.
DB (Deutsch and Bonnet) STORY Part 14
CD Panhard(1963-1965)
PANHARD 848cc Flat-Twin 50hp/5750rpm MAX 160km/h.
設計思想の対立から Bonnetと決別した Charles Deutschは PANHARDとのパートナーシップを続け、PANHARD PL-17をベースにグラン・ツーリスモ CD Panhardを設計する。ボディ・デザインは Marcel Hubert。René Bonnet Djetもデザインした彼は二股をかけていたということになる。
後に販売されたバージョン Rallyでは Zenithのツインキャブで武装され、最高速度 180km/hを叩き出している。
CD Panhardは、市販される前の62年ル・マンに参戦。クラス規定により 702ccとされた空冷フラット・ツインは最高速度 200km/hにチューンされて #53の André Guilhaudin - Alain Bertaut組が総合16位(E 850ccクラスで優勝)で見事に完走し、熱効率指数賞も獲得した。
Panhard & Levassor #55 CD PANHARD as raced to 34th place(Did not finish) at Le Mans 1962 by Guy Verrier - Bernard Boyer.
ドライバーの Guy Verrierは後に Citroenのレーシング・サービス・マネージャーに、Bernard Boyerは MATRA V12の設計技術者となっている。
S.E.C. Automobiles CD #53 CD Peugeot as raced to 45th place(Did not finish) at Le Mans 1967 by André Guilhaudin - Alain Bertaut.
Peugeot 1149cc 4cyl 108hp MAX 235km/h.
PANHARDが乗用車の生産から撤退した後の Deutschは、フランス道路公団の技術者となり、次いではル・マンに建設されたブガッティ・サーキットの設計にも関わっている。しかしながらル・マン挑戦の情熱は断ち難く、Peugeot 204エンジンをミドシップに横置きした CD Peugeotを設計し、66年と67年の2度ル・マンに挑戦した。リアに大きな垂直尾翼をもつマシンは、何れの年も完走できず失敗に終わった。これを契機に Deutschはル・マンから手を引くこととなる。
しかしながら、空力学の技術者であった Deutschが起こした企業 SERAは現在に至るまでエアロダイナミックスやその他の自動車技術を各国の自動車メーカーに提供し続けている。過去の有名な仕事として、ポルシェ917のロングテールやアルファ・ロメオ33の空力ボディなどの設計が知られている。
http://www.sogeclair.com/filiales/sera/epopeeF1.php
DB (Deutsch and Bonnet) STORY Part 13
Renaultからのエンジン供給が決まった 1963年、世界初の量産ミドシップ・スポーツカーが誕生した。René Bonnet Djet(ジェット)である。エンジンをリア・アクスル前にマウントするというレイアウトは、戦前の AUTO-UNIONのGPマシンを始めとして、戦前戦後に既にいくつかの例が見られていたが、大胆にも市販スポーツカーにこれを採用したのは Lamborghiniでも LOTUSでもなく、René Bonnet Djetだったのである。まさに技術者 Bonnetの独創と熱意を示したクルマと言えよう。太いチューブのバック・ボーン・フレームをベースに、リアのサブ・フレームに Renaultから供給された4気筒エンジン3種(845cc,956cc,1108cc)を搭載。戦前からFFにこだわっていた Bonnetが30年にも及ぶ長いレース経験から得た結論がミドシップだったのである*1。
足回りは前後共にコイルのダブル・ウィッシュボーン。リアはダブルのコイルとダンパーを持つ。ギアボックスは4段で、エンジンと共に前後逆に搭載された。
縦に細長い特徴のFRP製軽量ボディは前面投影面積の低下を追求したもので、デザイナーは Marcel Hubert。ル・マン参戦の Alpine M63から M65に至る一連のレーシングカーのデザイナーとして有名な彼だが、おそらく50年代から DBの空力ボディのデザインに関与していると言われている。
すべての点で、Bonnetの理想を具象化したスポーツカーであった Djetであるが、63年と64年の2年間という短命に終わってしまった。理由は Automobiles René Bonnetの経済的破綻であった。65年に Renaultはエンジン供給を ALPINE一本に絞ることを決断する。Bonnetはクルマを生産する術を失い、財政基盤は失われたのであった。1964年に航空宇宙産業で有名な MATRAに Automobiles René Bonnetは吸収され、MATRAの自動車部門が発足されて Djetは継続販売されることになる。René Bonnetは追放されただけでなく、無残にも裁判所は破産するにあたり今後10年間はクルマの製造販売をしないことを Bonnetに命じたのである。彼の一家は離散し、晩年は寂しいものだったという。
Bonnet最後のル・マン挑戦は 1964年。より空力を高めたPhilippe Farjon / Serge Lelong組の#52 Aérodjetが総合23位で完走している。
The Société Automobiles René Bonnet #48 Aero Djet as raced to 28th place(Did not finish) at Le Mans 1964 by Cliff Allison - Keith Hall.
Renault-Gordini 4 cyl 1150cc
*1:袂を分けた相棒の DeutschはFFにこだわった可能性がある。
DB (Deutsch and Bonnet) STORY Part 10
Automobiles Deutsch et Bonnet #48 DB HBR5 PANHARD as raced to 20th place(S 850 Class 3rd) at Le Mans 1961 by André Guilhaudin- Jean-François Jaeger.
PANHARD 848cc Flat-Twin.
市販の DB Coachをチョップド・ルーフにして、より空力特性を高めている。
DB (Deutsch and Bonnet) STORY Part 9
Automobiles Deutsch et Bonnet #48 DB PANHARD as raced to 15th place(S 850 Class Winner) at Le Mans 1960 by Paul Armagnac- Gérard Laureau.
PANHARD 702cc Flat-Twin.
1960年のル・マンに於いて S 850ccクラスの優勝は勿論のこと、性能指数賞を獲得したマシン。ウィンドシールドが大きいのは、この年の規定で高さ25cm、幅100cm以上にウィンドシールドの大きさを規定したため。運転席側がえぐられているのに注意。
フランス空軍の国籍マークは DBが好んで使用したもの。