HONDA S600


4cyl DOHC 606cc 57hp/8500rpm MAX 145km/h.

 1964年のある晩、小林彰太郎さんはベッドの中で「ホンダF1のデビュー戦をこの目で見て、自分で取材しよう。そのためにヨーロッパにホンダS600を持ち込んでやろう」と決意した。翌日、すぐに家を建てる予定で購入していた土地の半分を売却する手続きを始めた。向こうでの滞在費は自己負担するということで、東京〜ロンドン間の飛行機チケットは雑誌カーグラフィックの出版元に払ってもらうこととなった。土地が売れると、すぐにホンダに行って、計画を話してクルマを注文した。車両本体はラゲッジラックをつけて54万円ぐらいだったという。大卒初任給が2万円の時代だから、S600は約500万円の高級車だったということだ!!



 小林さんが S600を選んだ理由は、「あんなに小さくて1万回転以上も回るエンジンを備え、すべてが独創の塊でありながら、(当時の日本車と比べて)値段は50万円しかしなかった」ということ。
 

単なる観光旅行として自由に外国に行けるようになったのが、この年 1964年のことである。しかも1人年間1回しか海外に渡航できないし、持ち出しができる外貨は500ドルまでという制限がついていたのだ。東京〜ロンドン往復は現在の価値で数100万円ぐらいにはなったはず。ホンダは現地での故障を心配し、小林さんのクルマを預かると、出発前日までかかって足回りを強化し、タイアも当時の日本では入手が難しかった DUNLOP SP3に替えられていた。社長の本田宗一郎さんから直々に発売されたばかりの携帯用発電機を渡されたという。



HONDA RA272


 ロンドンまでは30時間もかかったが、初めて観る英国の風景に小林さんは感動されたようだ。
 肝心のホンダ F1デビューは英国には間に合わなくて、ドイツはニュルブルクリンクだった。いまやスポーツカーの聖地となったニュルブルクリンクであるが、当時はパドックからトンネルをくぐりピットに戻る構造となっていた。その暗いトンネルから、いきなりパッと真っ白いボディに日の丸をつけたクルマが出てきた瞬間、物凄い歓声が沸き起こった。監督の中村良夫さんは野次かと思ったらしいが、そうではなくて大歓声の声だった。小林さんは感激し、生まれて初めて日本人であることに誇りをもったという。
 S600は英国からドイツへの長旅でも快調であったが、ケルンのそばのアウトバーン上でスローダウンしようとしたときにバルブ・クラッシュでエンジンが壊れてしまった。当時、S600は欧州で販売していなかったために、わざわざベルギー・ホンダまで引き返して、そこに鎮座していた S600のエンジンを移植し事なきを得る。これは、古我信生氏がヨーロッパのベルギーからブルガリアのソフィアまでの往復約 6000kmのラリーに挑戦したクルマであった。帰国した小林さんは、早速、本田技研に乗り込んで「大文句」を言ってやろうと思ったら、本田宗一郎さん自ら故障の原因を懇切丁寧に説明してくれたものだから、流石の小林さんも振り上げようとした拳のやり場がなくなった感じで、納得して帰ったそうだ。
 欧州では未発売だった S600は各地で好評で、LOTUS訪問時には Colin Chapman以下みんな出てきて感心して見ていたようだ。変態技術者の Mike Costinは特に感心していたそうな。 Chapmanに S600を貸すと、彼は割れんばかりにローで引っ張るものだから、小林さんはたいそう心配されたようだ。

 3ヶ月ものヨーロッパの長旅は、小林さんの自動車観を一変させるほどの影響を与えた。日本に生まれたことが非常に残念だと思ったそうだ。欧州と違い、いつも都内の道路は混んでおり、まともな高速道路がないのでスピードは出せない。アスファルト舗装率は極端に低い。それほど酷い道路事情であれば、日本に高性能車はいらない。遅くても安くて丈夫なクルマであれば良い。トヨタのパブリカ・バンで十分だと。