自動車と整備 1961年4月号 Hino Contessa


社団法人・日本自動車整備振興会が発行する整備技術の雑誌。
表紙の写真は FIAT 1800である。

特集は、発表されたばかりの日野コンテッサであった。



 1953年から、Renault 4CVのノックダウン生産を始めた日野であったが、タクシー需要の多さに甘んじていた。「タクシーと言えば日野ルノー」と呼ばれた時代があったのだ。そのため独自開発の小型車開発に出遅れてしまう。5年の開発期間を経て発表されたのが Contessaである。デザインはテールフィンを備えた小型アメリカ車という雰囲気。
 リア・エンジンで中身はほとんど Renault 4CVと変わらないものだった。特にラジエターの配置は 4CVと全く同じものだったので、当時公団だった Renaultは神経をとがらせて dead copyではないかと疑ったのである。公団側は日野に対しエンジニアを派遣し詳細を調査するまでの大騒動となった。


 日野側はあわてた。フランス政府がバックの Renaultともめることとなれば、最悪日本とフランス2国間の外交問題となる恐れもあったからだ。日本の自動車メーカーが模造品を製造したとなれば、日本の信用問題にも発展しかねない懸念もある。旧通産省も外務省も注目したにちがいない。実際 dead copyであったのだが、あくまで公知の技術を採用したに過ぎない、と反論しなければならなくなった。当時エンジン開発の技師であった鈴木孝氏は、多くの文献から 1935年の MERCEDES-BENZ 170Hを見つけた。RR駆動でラジエターは 4CV同様にエンジンの前方にあった。これにより、Contessaのラジエター配置は「公知の事実」ではないかと反論し丸く収めたのである。




 満を持して 1961年に発売された Contessaであるが、既に 1959年に日産ブルーバード、1960年にトヨペット・コロナが発売されており、小型ファミリー・サルーン後発の日野は遅きに失した感があった。1957年のヒット作となった Renault Dauphineが発表された際に、日野は Dauphineを 4CV同様にノックダウン生産をしていれば、トヨタや日産を追い抜きトップ企業、という声も後に日野を吸収したトヨタの幹部からあがっていたようだ。興味深い話ではある。