C.S. Rolls & Co. 1905


これは貴重な、ディーラーであった C.S. Rolls & Co. 1905年の Rolls-Royceカタログ復刻版。
Bobさんのコレクションです。



「世界一静かな2気筒エンジン」

 貧しい粉挽きの息子として生まれたマンチェスターの若い電気技師、Frederick Henry Royceが初めて自動車を製作したのは彼が40歳の 1904年のことであった。それは2気筒2リッターの10HP車であったが、エンジンのスムーズで静粛なこと、信頼性の高いことでは当時のいかなる車より傑出していた。直列2気筒 2000cc 吸気はオーバーヘッド、排気はサイドのバルブギアを持つ。クランクにはバランスウェイトがボルト締めされ、理想的な振動対策が行われている。電気系統はトレンブラー高圧コイルとバッテリーによるもの。そしてガバナー付の精巧なキャブレターは、当時としては最も進んだ設計で、エンジン回転の適切なコントロールができた。当時の2気筒車が、スピードのコントロールをもっぱらギアボックスに頼っていたことを考えると、このクルマの柔軟性はまさに画期的なものであった。「世界一静かな2気筒エンジン」というコピーに偽りはなかったのである。3段ギアボックスで最高速度は約60km/hであった。すでに1号車からラジエターグリルにはパルテノン神殿のデザインが用いられていた。
 シャシーはフランスの DECAUVILLE車を模したものとなっている。

 Henry Royceが終生追い求めた理想は、単なる性能ではなく、考えうる最良の方法と最高の材質を用いて、最も良心的な車をつくることにあったのである。価格は、製品が出来上ってしまってから自ずから定まった。Royce車の優秀性にまず魅せられた一人が、当時すでにモータリストの先駆者*1として名高かった裕福な貴族の子息 Charles Stewart Rollsであった。1号車の静粛性にいたく感動した Sir Rollsは直ちに、Royceの製作するすべての車を販売する契約を結んだ。しばらくは両者は別会社の形で Rolls-Royceブランドの自動車の製造・販売を行った。1906年、皮肉にも貧乏人と貴族の出会いにより、ここに偉大なる Rolls-Royce Limitedが生れたのである。


 Sir Rollsの指示により、Royceは1年以内という驚くべき短期間で3気筒15HP型、4気筒20HP型、および6気筒30HP型を設計している。それを成し得たのは、エンジンの基本が同一で、部品が大幅に規格化されていたからであった。4気筒20HP型は2気筒10HP型のシリンダーブロックを2個並べたものであり、6気筒30HP型は2気筒エンジンを3基並べた形を採っていたからである。

 2気筒10HPと4気筒20HPの2台は自走でパリサロンの会場に向かい展示された。会場ではRolls-Royceの静粛性やスムーズさにパリ社交界の人たちは驚かされた。それまで2流と考えられていた英国車のイメージを激変させたのである。Rolls-Royceは同サロンで特賞を受賞しただけでなく、会場にて27台もの受注を得たのであった。


カタログの最後は、王様、皇太子、公爵、男爵...etc.
きらびやかな Rolls-Royceのオーナーの名が記されている。

*1:彼は当時、世界で最も技術的に進んでいたフランス車の Peugeotや PANHARDを乗り回して都市間レースに参加していた。

1937 Rolls-Royce Phantom III Sedanca de Ville by Hooper

 1936年10月、新設計のV12気筒エンジンと、ロールス・ロイスとして初めて前輪独立懸架を備えたファンタムⅢが発表された。この二つの特徴は、全体のスタイリングに大きな変化をもたらした。それまでの6気筒に較べてエンジンがよりコンパクトになり、さらに独立懸架の採用によってエンジンの搭載位置が前進した結果、ボンネットが短かくなり、ラジエターがフロントアクスルより前側に移された。同時に客室スペースが増大し、特に後席の居住性は大いに向上したが、長いボンネットと相対的に小さいキャビン、フロントアクスルより奥に控えたラジエターと言った古典的なプロポーションとは決別することとなる。60°V12気筒エンジンは7338㏄、パワーは約160HP/4000rpmと推定され、4速ミッションは2速以上にシンクロが付いた。コンパクトなエンジンを搭載しPhantomⅡよりも8%軽量化され、パワーは12%増加したファンタムⅢの最高速はロールス・ロイスとして初めて160km/hを超えた。製産台数は第2次大戦の勃発の影響により715台にとどまっている。また前輪独立懸架の採用によって乗り心地は改善されたが、それよりもコーナリング性能がより向上することとなった。
 HooperによるSedanca de Villeは、ドライバー上のルーフがスライドして、リアコンパートメントのルーフに収納される機能を持つ。


ロールス・ロイス製航空機エンジンの技術が生かされたV12気筒エンジン。それまでのエンジンよりも静粛性が高く、スムーズでパワフルであった。点火系は1気筒あたり2本のプラグにより、それぞれ別系統のコイルとディストリビューターによって成り立つ。


エンジン・フードを開けるときは Flying Ladyの羽が邪魔になるので横向きにする。


James Young Ltd Coachbuilders Part 2





Rolls-Royce に関する小林彰太郎さんによるインプレッションを、CG誌63年3月号の記事から引用してみよう。

 現代のロールス ロイスを旧式な車だと思ったら大間違いで、古典的なボディの内には自動車技術の最先端を行く機構が秘められている。エンジンはV8 6230cc、4 速遊星ギヤとトルクコンバーターを組合わせた自動変速機がすべてのモデルについて標準装備であり、ステアリングもブレーキもサーヴォが付いている。外観上、ヘッドライトが4 灯式になったのが63 年型の大きな特徴である。これはスタイリングの時流に従ったというよりも、ロールスの高性能と現代の交通事情がそれを必要とするに至ったためと解するべきだろう。基本的なモデルは従来通りファンタムV とシルヴァークラウドⅢの2 種。言うまでもなく、ファンタムV は王侯貴族用のフォーマルリムジンで、ホイールベースは最も長く144 インチ。ボディはすべて名のあるコーチビルダーの特製で、パークウォード社とジェイムズヤング社が架装している。
 シルヴァークラウドにはホイールベースに123 と127 インチの2 種あり、標準ボディはロールス自家製のスティーサルーンだが、別にセミカスタムでジェイムズヤング製ディヴィジョン付サルーンと、マリナー製ドロップヘッドクーぺがある。ボディの基本型は62 年型と大差ないが、ライトが4灯になった他、ラジエターとボンネットが幾分低くなって前方視界が改善されたという。V8 エンジンの出力は例によって発表されないが、圧縮比を8 から9 に上げ、ツインSU キャブレターを2 インチ径に変えた結果、出力は7%増加したと言われる。性能的にもかなり優秀で、シルヴァークラウドは190Km/h 以上、ファンタムV リムジンでさえ優に160Km/h を超える。英国工場価格(税金を含まず)は、ファンタムV が約730 万円、シルヴァークラウド標準サルーンでも約456 万円もする。

 ロールスは今年から遂にデュアルランプを採用したが、写真の車は62 年型シルヴァー・クラウトⅡの標準サルーン。これはロールス自社製の豪華な6 人乗サルーンボディを載せた、ロールスとしては最も高くないモデルながら、入札価格は1350万円である。ホイールベース123 インチ(3.12m)、全長5.38m、重量2 トンを超える超大型車だが、V8 6230 ㏄のパワフルなエンジンと4 速フルオートマティックトランスミッションの組合せにより、歩くよりおそいペースから190Km/h を超えるマキシマムまで、音もなくスムーズに加速できる。ローレンス・ポメロイの名文句によると100マイルで走行中、いちばん大きいノイズは時計が時を刻む音だそうだが、この車は時計さえ聞こえなかった。

 厚いウォルナットのダッシュには黒地に白文字の古典的な美しい計器が並んでいる。高い座席からはるかかなたに立つマスコットを見ながら運転するのは実に豪華な気分だ。4 速遊星ギヤとトルクコンバーターによる自動変速機は3 つのスピードレインジを持つ。ステアリングもブレーキもサーヴォ付で極く軽い。

入札価格というのは、当時の日本では輸入車は日本車メーカー保護のために輸入自由化されてはいなかったため、欲しい人は入札して買うこととなっていたのだ。今の価格にしたら1億3千万円というところだろうか。
 

James Young Ltd Coachbuilders


 James Young社は1863年、London Road, Bromleyにて創業。馬車の製造を生業としていた。
 1908年、地元選出の国会議員のために初めてクルマのボディを架装。1921年からは Bentleyのボディを架装するようになる。他に Alfa Romeo, Sunbeamそして Rolls-Royceも手がけるようになった。1925年の London Motor Showでは自社ブースを設けるまでに成長した。
 しかし、1937年にはロンドンの Rolls-Royce dealer Jack Barclayに買収されてしまう。第2次大戦中は航空機の部品を製造、工場は爆撃を受けてしまい、これまでの財産のほとんどを失ってしまう。戦後、ボディ製造は再開され、最後の自動車ボディは 1967年に造られた。


これから紹介するカタログは、Bobさんが60年代に直接請求して手に入れた貴重なカタログである。








この項つづく。

1937, Rolls-Royce 25/30HP Sports Saloon by Hooper

神宮外苑のイベントに出場していた Bentley 6,1/2Litre Speed Six に魅了されて、コレクションを展示している“WAKUI MUSEUM”を訪れた。

http://www.wakuimuseum.com/

展示されているロールスロイスベントレーの放つ桃源郷のような世界は、阿片のような怪しい世界も想像させ興味は尽きない。


水冷直列6気筒 OHV 4257cc エンジン出力未公表

ボディはコーチビルダーのフーパーが架装している。
http://www.coachbuild.com/index.php?option=com_gallery2&Itemid=50&g2_itemId=44491

吉田茂が戦前、駐英大使として勤務していた際に購入したロールスそのもの。その後、麻生太郎の父上が所有していたという。
当時の登録ナンバー「3 せ4046」に注意。昔は品川などの車検場の名称はナンバーに記載されていなかったのだ。
吉田茂は首相時代、わざわざ英国のR-R 社へ送ってシャシーからボディまでオーバーホールしたようだが、その時の費用が当時の新車のビュイックが3台も買えたというのだから、いまの貨幣価値にすれば修理費が数千万円だったことになる。一度日本でエンジンのオーバーホールを試みたが、さて組み上ってみると幾つかパーツが余ってしまいどこへ付くのかわからないので英国へ送り返したという逸話が残っている。

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