世襲企業 大東自動車の失敗 Part 4 

この記事はフィクションであり、実在の人物、団体などとは一切関係ありません。

 ある日の昼食、イエスマン幹部を社長室に呼んで、弁当をつつきながら辰雄は息子直治の入社問題を切り出した。
「直治には、もちろんいろいろな批判があるだろうが、いずれ大東自動車を背負って立っていってもらわなければならん。だからこそ漠然と入社させるのでは意味がないではないか。これが直治のやる仕事というものを、はっきりつくってやらなければならん。将来社長になったとき、あのことをやりとげた三沢直治というふうに、内外で評価されてこそ、スムーズにわしの後を継いでいける」
「地方都市広島の自動車メーカーである、大東自動車にとって、いま最大の課題はなにか? もちろん売り出したばかりのR360クーペを成功させ、乗用車部門進出の手がかりをつくって、さらに車種のバランスを高めていく、それもたしかに重要だろうが、その前に大東自動車イコール、バタンコ(オート3輪)という、3輪トラックメーカーのイメージを、何かで一変させてしまう必要がある。そうしなければ総合自動車メーカーとしては、絶対に成功しない」
「社内、とくに技術部あたりでは、海のものとも山のものともまだわからんロータリー・エンジンの技術導入を急ぐより、R360クーペにつづく新車の開発のほうが急務だと考えているらしいが、それはそれとして大切だとしても、経営というものはそんな一本調子のものじゃない。極端なことを言うと、ロータリー・エンジンの技術導入は、ロータリー・エンジン車を現実に送り出すことではないのだ。大東自動車が、その開発研究をしているという、技術水準の証明のほうがはるかに意味がある」
「しかし、、、直治さんにロータリー・エンジンを担当していただくことはわかりましたが、それで果たして、直治さんがした仕事という評価が生まれるでしょうか。もし技術開発に失敗すれば、むしろ減点になると思うのですが」
辰雄の腹心第1号である技術部長の永峰が恐る恐る尋ねた。
「ロータリー・エンジンは、昨日や今日言われだしたことではないはずだ。同時に、明日、明後日に開発を成功させなかえればならないことでもない。永遠に研究し続けてもよいくらいの、エンジン技術からいえば夢の課題だと、わたしは理解しているがね」
「では、直治さんは何をするのでしょうか」
「技術導入。交渉だって簡単にはいかん。しかし、わたしが下準備だけはしておかねばならんだろう。自らドイツに行くさ。ここは押しの一手だ」
辰雄は自分の口調に酔っていたようにみえた。

 64歳で、しかも義足の辰雄が杖をつきながら自ら西ドイツへ、ロータリー・エンジンの技術導入交渉に出かけるという。
 大東自動車にとっては、もちろん大変なことであった。ロータリー・エンジンの技術導入よりなによりも、いままで一度も海外へ出たことのない辰雄が、末娘の操を介添役として同伴するとはいえ、自ら西ドイツへ飛ぶという、そのことのほうが大きな出来事であったのである。
 1960年9月30日。
 操を加えて6人の一行は、夜の羽田空港を飛び立っていった。
 もちろん大東自動車の幹部は、何人かの留守役を除いて、全員が羽田空港に押しかけ、辰雄の西ドイツ行きを見送った。
 東京で一泊した直治が、広島に戻ったのは翌日の夕方だった。
 庭続きともいえる本家に立ち寄り、義母(後妻である)に辰雄の旅立ちの模様を報告してから、家へ戻りくつろいだ。
 そんな直治が、いきなり大東自動車に入り幹部となるのではという噂に対する社員の不満がくすぶり始めていたことを知る由もなかった。
 直治の大東自動車入社に対する、取締役陣の反応については、一通りの計算が出来ていた。取締役陣で仮に露骨に反対する者がいたとしても、最後は父辰雄の、代表取締役の人事権で、どうにでも処理がついてしまう。
 もう一つは地元広島の財界の反応である。
 このほうは、誰もが大東自動車を三沢家の家業と心得ていたし、多少の批判があったとしても、表面化することはまず考えられなかった。
 正直な話、辰雄や直治が考えていたことはそこまでである。
 直治の大東自動車入りについて、辰雄からはまだ何も話がなかったから、具体的な反響についての検討をしたわけではない。しかし社員の反応までは、まったく考慮に入れていなかった。それはあくまでも三沢家の家業としての大東自動車の問題、つまり経営上のことであって、社員には無関係なこととして処理していたからである。 
 高度成長期になって、たとえオーナーの長男であろうと、頭越しの人事は通用しないという空気があったのだが、叩き上げではないボンボンにそこまでの気配りはなかったのである。