世襲企業 大東自動車の失敗 Part 3 

この記事はフィクションであり、実在の人物、団体などとは一切関係ありません。

 息子の直治を将来の社長として大東自動車に入社させるためには、その体制固めが必要だった。辰雄は 1947(昭和22)年に起こった、直治を取締役で入れるか入れないかの騒動の際、反対した浜崎と林、2人の乗務を専務に格上げする代わりに、辰雄のイエスマンをごっそりと常務や新任取締役に据えたのである。窓際の監査役を9年もやった苅谷は辰雄にゴマをすりつづけて常務に抜擢。もう1人販売担当常務となった吉野なんぞ、辰雄には歯の浮くようなお世辞しか言えないし、当人はクルマを売ったこともない人物。父親が菱和商事でミサワの3輪トラックを販売していた。そのコネで入社したのであった。創立40周年、まもなく360クーペも発売する。この勢いで入れてしまおうという魂胆だった。常任監査役になった安藤は事実上、直治の養育係。大東自動車にとって本来必要な社員は、干された浜崎と林の系列であった。広島の地元の新聞社は「三沢社長の経営力は評価するが、常務以下の重役は、1人の例外なしにイモですね」と言い切っていた。

 小型トラックメーカーから、総合自動車メーカーへの飛躍を目指す大東自動車にとって、4輪乗用車の発売は悲願達成の重要なステップであった。その先陣を切るのが、軽自動車規格のファミリーカーR360クーペである。発売1ヶ月前の4月22日に発表会を行い5月28日一斉販売という予定になっていた。
 日本の乗用車工業に刺激的な波紋を投じたのは、1955(昭和30)年5月に通産省自動車課が立案に着手していると言われた「国民車構想」であった。
 内容は、、、

・乗車定員4人または2人で100kg以上の荷物が乗せられること。

・最高時速100km以上および時速60km(平坦な道路)で、1リットルの燃料で30kmの走行が可 能なこと。

・エンジン排気量が350〜550cc、車重400kg、価格は月産2000台で25万円以下。

というものであった。誠に官僚らしい、机上の空論のようなものであった。自動車業界としては、この構想による性能と価格の条件を満たすクルマの製造は、不可能だという結論を出した。
 そういうこともあり、構想は正式に打ち出されることはなかったが、この時以降の乗用車市場は、バスやトラック、タクシー等の営業車中心から、事業用の商用車へ、さらに1960(昭和35)年に入ると、自家用車の需要が注目されるようになり、排気量360〜500ccという、通産省の国民車構想を基にした小型や軽自動車が、国内のメーカーから相次いで発売された。その先陣を切ったのが、スバル360である。
 大東自動車のR360クーペも、こういった状況を背景に開発されたものだったが、もちろんそれは、大東自動車が総合自動車メーカーへの脱皮を目論み、その第1弾として売り出したもので、4人乗り(実際、大人4人は無理であったが)で30万円という価格が大きくアピールし、マスコミの話題をさらった。
 問題はマスコミの受けではなく、果たして実際に売れるかどうかであった。ところが4月22日の発表会以降、全国のディーラーから予約注文が殺到したのである。辰雄は、ピラミッド型の国民所得階層分布にそって、乗用車の保有構造も展開するに違いないという見込みで、ピラミッドの頂点よりも、まず底辺から開拓していくべきだという持論をもっていた。そういう見通しの良さ、洞察力の深さで、辰雄には卓抜したものがあった。
 辰雄としては、このR360クーペの成否が、昨年12月の浜崎−林棚上げ人事の評価を決める鍵になっていた。
 先代の英之助時代から、大東自動車は技術の浜崎、管理の林という2人を車輪の両輪に、経営が展開されてきた。
 辰雄としては、いまさら13年前の、2人によって大東自動車を追われた恨みを口にするつもりはなかった。わだかまりは、3年後に辰雄が大東自動車に復帰し、さらにその半年後、英之助が会長に退き、後を継いで辰雄が大東自動車の社長に就任したことで、表面上は和解したことになっていた。
 だが辰雄は、表面上はともかく、大東自動車復帰に際して、技術者同士の確執から浜崎によって会社を追われていた永峰吉彦を、一緒に連れ戻った。
 永峰は大東自動車の、特に自動車部門の技術者として、大東自動車を3輪トラックのトップメーカーに押し上げた功労者であった。しかし戦前戦後の時期、大東自動車全体としてみると、売上比率、収益性の面で、オート3輪部門は浜崎の工作機械部門の比ではなく、工作機械技術者の浜崎にとって、戦後の大東自動車の進路決定に、永峰は邪魔者。。。であった。
 永峰を排除することで、大東自動車は工作機械メーカーとして、戦後の再スタートを切ることができる。。。
 浜崎のこの主張に反対し、3輪トラック中心で再建を図るべきだと主張していたのが辰雄で、しかし辰雄が大東自動車を追われると、永峰も浜崎によって切り捨てられた。
 そういう事情があっただけに、大東自動車復帰に際して、辰雄が永峰を連れ戻したことには、2つの意味があった。
 1つは先代英之助の長男だということで、辰雄は浜崎−林に対抗する力を、あえて持とうとしなかったことが、紛れもない後継者。。。でありながら、辰雄が大東自動車を追われる結果になってしまったという、痛恨の反省。
 もう1つは、永峰を連れ帰ることで、自動車中心という辰雄の経営方針を、社内に宣明することであった。
 辰雄は、英之助の後を継いで代表取締役社長になると同時に、永峰を取締役に新任し、技術部長とした。言うならば永峰は辰雄の腹心第1号であり、股肱の臣の最初の人材である。
 社長に就任してからの辰雄は、翌年春、英之助が他界した段階で、浜崎と林の2人を切って捨てることもできたが、あえてそういう荒療治は避けてきた。2人が英之助以来の大東自動車の屋台骨を支えてきた功績は、社の内外を問わず周知の事実であり、2人の経営手腕には、まだ活用の余地があった。
 それも辰雄の、独特な経営センスと言っていいものである。
 だが番頭グループの活用も限界に来た。
 辰雄としてはここへきて2人を必要としなくなったというより、できるだけ早く息子の直治を大東自動車へ迎え入れるため、先代英之助時代の尻尾を切り落としてしまう必要があったのである。そこで2人を専務に格上げすると同時に、永峰を技術担当の常務にして、浜崎が握っていた技術面の権限を奪い、吉野と苅谷を同じく常務にして、事務統括としての林梅次郎の権限を、吉野の販売、苅谷の財務担当の2人がかりで無力化してしまう。
 これで経営基準の決定機関と言うべき常務会は、浜崎と林が辰雄の意思に逆らったとしても、腹心三常務と辰雄VS浜崎、林の4対2で、辰雄の思惑どおりに事が運ぶはずであった。
 息子直治を迎え入れる、最大の布石人事だった。

この項つづく。