世襲企業 大東自動車の失敗 Part 2

この記事はフィクションであり、実在の人物、団体などとは一切関係ありません。


 戦後の大東自動車の経営方針をめぐって、「3輪トラックの製造をメインにするべき」という主張をした2代目の辰雄は会社を追い出されたわけだが、結果的に3輪トラックは売れに売れて、3年後の 1950(昭和25)年7月に辰雄は大東自動車に復帰した。先見の銘があった辰雄は社内にて一目置かれる存在となり、社業推進の中心に座ることとなる。翌1951(昭和26)年に英之助から社長の椅子を受け継ぎ、翌年英之助が死ぬと、こんどは自分を追放した浜崎常務や林常務に対抗する新しい腹心グループを、露骨に築き上げていった。
 父英之助の影響力を薄め、辰雄のワンマン体制を固めない限り、息子の直治を大東自動車に迎え入れることができない。。。英之助が他界した段階で息子の直治の大東自動車入社には、浜崎常務も林常務も、もう反対しないはずではあったが、両常務の反対により3年間も社外に追放となった辰雄としては、それだけでは納得しなかった。直治を大東自動車に入れるのであれば、紛れもない辰雄の後継者という地位が確立されていなければならない。社内抗争により52歳で大阪に追われた屈辱は忘れ去ることはできなかった。
 1960(昭和35)年の9月には、大東自動車創立40周年の記念行事が予定されており、それが直治を迎える1つの目標になると考えていた。

 1960年代を迎えようとしていたこの時期、日本経済は戦後の復興時期を過ぎ、自国産業保護政策から開放経済体制が叫ばれ、GNPの伸びにつれ、日本の自動車産業が本格的な競争に突入する兆候もはっきりとうかがえるようになった。現実に日本の各自動車メーカーは、自家用自動車ブームを前に、本格的な総合自動車メーカーに飛躍するか、あるいは特殊車やトラック類の専門メーカーにとどまるかという、二者択一の厳しい選択を迫られていた。
 この段階で、総合自動車メーカーの体裁を整えていたのは、日産自動車トヨタ自動車の2社にすぎなかったが、その日産、トヨタの2社にしても、各車種のすべてを合わせても年産50万台以下という心もとないもので、世界のレベルと比較して、吹けば飛ぶような弱小メーカーでしかなかったのである。翻って大東自動車といえば、オート3輪メーカーから、せいぜい分野の限定された、小型トラックメーカーぐらいにしか成長できないことは目に見えていた。そんなことになれば、田舎広島の、少し大きい地場産業...で終わってしまう。
 辰雄には満足できなかった。
 それも、しからば小型トラック・メーカーなら、今後間違いなくやっていけるかというと、そんな保証はどこにもなかった。いずれ訪れる外国製自動車の輸入自由化や、資本の自由化による巨大資本の日本進出が具体化すると、政府通産省(現経済産業省)はそれに対抗するために、国内自動車産業の再編成に乗り出してくるに違いなかった。国際競争力のないメーカーは、合併させられるか乗っ取られるか、下手をすると叩き潰されてしまうかもしれない。
 大東自動車が生き残る道は1つしかない。
 3輪トラックや小型4輪トラック・メーカーから、1日も早く総合自動車メーカーへの脱皮、転進をはかり、日産、トヨタと4つに組んで覇権を争えるだけの体制に、会社を押し上げておかなければならなかった。
 それには資金的な太いパイプと、本格的な乗用車もこなせるという、技術の先進性を広くアピールする必要があった。
 資金調達は、メインバンクの興亜銀行の神山頭取が保証してくれた。
 問題は技術力である。
 すでに4輪トラックも発売していたし、春には軽自動車規格のクーペを売り出す計画もできていた。生産、技術面ではどうにでも追いついていける見通しがあったが、問題は日産、トヨタの2社と比べて、後発メーカーのハンディをどう乗り越えるかということだった。
 後発...ということだけで、消費者は技術力にたいして疑問を抱く。消費者の信頼が得られなかったら、技術の良否はともかく、クルマは売れなかった。
 自動車、とくに乗用車は、完全なイメージ商品であった。
 それだけに、本格的な総合自動車メーカーを目指して乗用車の生産に乗り出すとしたら、地方都市広島の自動車会社...ではなく、日本の大東自動車だという、他社に比べて遜色のない技術水準を、広く消費者に認識させることから出発しなければならなかった。

 そういうとき、西ドイツの知人から、1通の手紙が辰雄のもとに舞い込んだ。
 それはロータリー・エンジンに関するもので、画期的なこのエンジン技術を、ぜひ大東自動車で導入したらどうかとすすめてきた。辰雄も昨年世界的な話題をさらった、バンケル博士が開発したロータリー・エンジンについては、一通りのことは知っていた。
 果たして...、
 ロータリー・エンジンの技術導入が、大東自動車の技術水準を宣伝する、デモンストレーションになるのか?
 その決断にはまだ時間的な余裕があるにしても、急がなければならないのは、ロータリー・エンジンよりも、息子直治を迎え入れる社内体制の整備である。大東自動車は父英之助が創業した三沢家の「家業」であった。社長の椅子は三沢一族が世襲していかなければならない。
 ただ、一族と呼ぶには三沢家は係累が少なすぎた。
 父栄之助には愛人に産ませた子どもを除いて、辰雄自身とそれに弟の2人しか嫡子がなく、辰雄の弟は原爆を浴びて死んでしまったし、その死んだ弟にも子どもが1人しかいなかった。
 辰雄の子どもも、直治と操の2人きりである。
 経営権を三沢一族で世襲していくには、これではいかにも弱体でありすぎる。いざというときの結束の強さは、血の交わりであるはずだった。
 辰雄が10年前に大東自動車を追われて大阪で暮らした3年間、彼の捨て鉢のような想いを支えた自分の娘のような芸者の弟である岩本を入社させたのは、可愛い息子の直治の腹心となる男が必要と辰雄が考えたことであった。準一族的な者を、1人でも多く直治の身辺に集めてやろうという配慮からだった。

 その頃、安保改正反対のデモが連日のように国会を取り囲んでいた。政治の季節が吹き荒れていた。


この項つづく。