世襲企業 大東自動車の失敗 Part 1

この記事はフィクションであり、実在の人物、団体などとは一切関係ありません。


 大東自動車の前身は、1920(大正9)年に三沢英之助(1875−1952)が創業した大東コルク工業である。ガラス瓶の栓にするコルクである。
 14歳で大阪に出て、鍛冶屋での修行で機械の製作技術を習得した。その後、呉や佐世保海軍工廠などで造船技術者として勤務した。1906年に発明された「三沢式ポンプ」を製作・販売する鉄工所を開設した。その後も大阪で鉄工所の経営にあたった。長男の辰雄が誕生したのは大阪時代である。技術者だった栄之助は、コルク会社を発展させ、工作機械の制作に乗り出し、コルク屋から機械製作所への大転換をはかった。1931(昭和6)年には、自動車部門に進出、モーターサイクルを試作し、やがて社名を大東自動車と変え、オート3輪の生産を開始したのである。しかし自動車の生産に入ったからといって、工作機械部門を切り捨てたわけではなく、軍部から九九式短小銃の生産を請け負い、大東自動車の規模拡大に成功した。
 オート3輪の生産を再開したのは、敗戦直後の1945(昭和20)年11月であった。
 大東自動車のオート3輪は、改良してタクシーに使われるなど、1962(昭和37)年に日産自動車ダットサン・ブルーバードの大量販売に入る直前まで、唯一の量産車としてブームをつくっていた。
 だが、日産自動車のブルーバード登場で、本格的な乗用車時代が到来する。
 3輪トラックメーカーの大東自動車も、その時流に乗って、乗用車をメインとした総合自動車メーカーに脱皮していかなければならなかった。4輪小型トラックへの進出は、乗用車開発への布石であり、大東自動車の技術力、つまり乗用車を開発できる技術レベルを擁していることを内外にアピールしたものであった。
 戦後の、目覚しく伸びたこの段階までの経営は、2代目の辰雄が中心となって推進したものであった。だが、辰雄中心の経営トップの体制ができるまで、様々な試行錯誤や混乱があった。
 戦前はもちろん、戦後の一時期まで、英之助は大東自動車の創業者で、同時に絶対君主のようなワンマン社長であった。そういう英之助を中心に、辰雄を加えて7人の取締役と1人の監査役というのが、大東自動車の経営トップの陣容であったが、栄之助の譜代ばかりで固めた取締役陣に、陰湿な派閥抗争が渦を巻いていた。絶対君主のような社長に支配された企業の派閥抗争は、君主に対する偉大なるイエスマン合戦であった。
 何があろうと、英之助の地位が揺らぐことは、絶対になかった。
 要は誰が一番英之助の信任を勝ち得るかということで、社内にもいろいろな思惑を秘めたグループが生まれてくるのである。
 三沢家に対する反抗ではなかった。
 まず、英之助の妾の娘を妻に迎え、三沢閨閥に連なることで、形式的に英之助の長男辰雄と同格になることを意識していた浜崎国平常務。そして終始英之助の忠実な番頭であった林梅次郎常務のグループの2つだった。当時専務であった2代目の辰雄は、自他共に認める英之助の後継者であったから、栄之助に対する忠勤合戦めいた派閥に加わる必要はなかった。
 結果として、それが辰雄を孤立させる原因となった。
 最初の孤立は、3代目の直治の扱いをめぐってである。陸軍経理学校を出て、戦争に行っていた直治は、復員して広島市上幟町の家でブラブラしていた。辰雄はこの直治を、大東自動車の取締役に据えて、早くから会社経営を勉強させようと考えた。戦後の苦しい会社再建には、一族の者や譜代とも言える社員は、全社員を結集して当たるべきだと辰雄は考えたからであった。
 ところが番頭グループの猛反発をくらってしまったのである。直治はまだ24歳の若さであった。浜崎常務はいきなりの取締役には反対し、平社員から叩き上げることを主張した。実は直治は辰雄の正妻の子ではなく、妾の子であったのだ。直治が陸軍経理学校へ入学する直前まで非嫡出子のままであったのである。浜崎常務は直治の出自にこだわったのである。辰雄の現在の妻は、辰雄にとっては3人目の妻であり水商売の出身であった。
 直治の実の母というのは、辰雄が大阪で学校に通っていた時に、突然結核性の関節炎にかかって入院し、左足切断の手術を受けた病院の看護師であり、辰雄に親切にしてくれた女性であった。退院後はその看護師と同棲生活に入り、そして足切断の手術から4年後に直治を産んだ。この女性が辰雄の最初の妻と言われているが、法的にはあくまでも同棲相手でしかなかった。それは直治が、非嫡出子の扱いのままであったということでも明らかであった。やがて辰雄は直治と共に広島へ呼び戻され、直治の母は因果を含められて辰雄と別れた。辰雄の父である創業者の英之助の措置である。ともかく英之助と辰雄の妻妾関係は複雑であった。3代目直治のたった1人の妹の操も、直治とは異母兄弟だったのである。
 話を直治の取締役就任問題に戻そう。取締役就任に反対したのは浜崎常務だけではなかった。林常務も、直治が若すぎることと、労働組合結成の噂がある中、従業員の反発を恐れていた。辰雄専務の提案に2人の常務が反対し、英之助は2人の常務の意見を採用した。直治の大東自動車入りが遅れて、1956年に傘下の販売会社社長に就任していたのはこのようないきさつがあったのだ。
 つぎは、戦後の大東自動車の進路を決定する際に、再び辰雄と浜崎−林との対立が起こった。
 辰雄は3輪トラックを中心に、工作機械は別会社にしてやっていくべきだと主張した。だが浜崎常務は、戦後の経済的にも疲弊したこの時期に、3輪トラックの需要など数える程しかあるはずがないし、ガソリンとかGHQによる統制経済でどうやって入手するのか問題が多い以上、ここは工作機械中心の体制でいくべきだと反対した。特に工作機械部門を別会社にするという点では林常務の反対も強かった。英之助が採決を採った。結果は英之助を除く6対1であった。
 辰雄はこの派閥争いからはみ出す格好で、1947(昭和22)年の8月に大東自動車を去り単身大阪に出て、小さなボールペン工場を経営した。52歳で次期社長候補の筆頭であった辰雄である。無念だった。同時に父英之助の処置を恨んだ。しかし、貧乏漁師の12番目の倅として生まれ、鍛冶屋の小僧から酷苦して事業家に成り上がった栄之助には、そういう厳しさがあった。

この項つづく。