世襲企業 大東自動車の失敗 Part 5

この記事はフィクションであり、実在の人物、団体などとは一切関係ありません。

1960年9月30日、西ドイツはフランクフルト行のJALで羽田を飛び立った辰雄ら6人の一行は、シュツットガルトに近い、バンケル研究所に着くと、10月3日から技術提携交渉に入った。バンケル研究所側は、夢のエンジン開発に成功したという立場をとっていたし、欧米の数社とも、すでに技術提携の契約を締結しているということで、初めから強気で交渉に臨んできた。
 
 研究所が要求してきた特許料は、3億5千万円。
 
 倍額増資をしてきて、資本金は80億円になったとはいえ、半期利益はやっと10億円を超えたばかりの大東自動車にとって、3億5千万円という特許料はいかにも高すぎた。それだけではない。外貨事情の逼迫している日本政府が、当時の固定相場(1ドル=360円)で約100万ドルもの外貨枠を、果たして認可してくれるのかどうか、それも1つの懸念だった。
 だが、安保騒動のおかげで対米自立を推進しようとした岸内閣は退陣し(昨年、対米追従の孫が総理になったが)、この年の7月に、広島出身の池田勇人が総理大臣に就任したから、折衝次第ではなんとかなる可能性がある。
 辰雄は池田総理の実現が、自分に向いた運だと思った。
 10日間の交渉で契約は締結された。
 技術提携契約の内容は、

1 200馬力以下のガソリンエンジン
2 相互に技術開発の成果を交換する。
3 販売地域は東南アジア地域15カ国。
4 契約期間は10年。

 というものであった。
 これで、大東自動車技術陣の総力を挙げて、夢のエンジン開発に取り組むこととなる。成否はともかくとして、大東自動車技術の宣伝には、3億5千万円以上という特許料以上の効果があるはずだし、直治を迎え入れる布石が完了するはずだ。
 もちろん、早急な成否を問わないといっても、ロータリーエンジンの開発に成功すれば、大東自動車の飛躍は保証されるはずだった。
 10月末、無事日本へ帰り着いた辰雄は、ただちに技術提携契約の認可申請を出すと、義足の脚を引きずって、ほとんど毎週といっていいくらい、腹心の永峰常務らと夜行特急を乗り継いで上京し、早期認可の陳情に通産省や大蔵省を回り歩いた。
 外貨枠割当ての見通しがついたのは、翌年の春である。
 執念の結実。
 辰雄は、三沢家の大東自動車の基礎を、いまこそ磐石のものに固めるチャンスだと考えて頑張り抜いた。
 帰国後、辰雄は料亭に浜崎-林の両専務を呼び出した。
 浜崎と林は、息子直治の入社に反対する気はさらさらなかった。むしろ当然のことと考えていた。1日も早く社長辰雄のそばで大東自動車の経営を勉強して欲しかったのだった。林は「1年間、常務の末席に置いて、来年、筆頭常務」という提言を辰雄にした。ところが、辰雄から返ってきた言葉は、
「出来のいい倅だったら、平取締役から修行させてもよいし、末席の常務でもよい。しかし、ご承知のとおり、直治はお世辞にも出来の良い倅とはいえんからな、、、副社長でどうだろうか」
という信じられない提案であった。
 三沢直治は、たしかに大東自動車オーナーの辰雄の長男である。しかし直治の現在の肩書きは、大東自動車の1ディーラーの社長でしかなかった。数多い系列ディーラーのその1社の社長に過ぎない直治が、いきなり本社の副社長になる。しかもそれは、大東自動車創業以来の功労者ともいうべき、2人の専務の頭越しに、、、であった。

この項つづく。