Musée automobile de la Sarthe  1902 Peugeot Type 48 Tonneau


Armand Peugeot(1849-1915)

 今日のフランスPSAグループの中心である Peugeotが、元々コーヒー・ミルや女性のコルセットの骨組みなど、ありとあらゆる工業製品(特にスチール製品)を生産していた Peugeot一族であるのはご存知だと思う。その Peugeotが自動車製造に関わるようになったのは、昨日紹介した Emile Levassorが関係していたことは、あまり知られていない。

 1876年、Peugeot Frères Aînés(プジョー兄弟の息子たち)という会社が設立され、そのメンバーの1人であった、27歳の Armand Peugeotは技術研修のために英国に留学させられたが、彼の地での自転車の普及に目を奪われ、帰国後に自転車の製造に取り掛かる。自転車は今と違い、当時の労働者の月給5ヶ月分にもなる高額商品であったが、好評で飛ぶように売れた。4年後の 1892年には8,000台、1900年には2万台も達した(Peugeotには今日も自転車部門がある)。
 ちょうどその頃、若い技術者 Leon Serpolletが瞬間的に超高圧過熱蒸気を作り出すボイラーを発明した。「若い女性がドレスのままで乗れる安全な乗り物」を考えていた Armandは、それに飛びつき、1889年に自転車の鋼管フレーム技術を使って巨大な4人乗り3輪蒸気自動車を制作する。しかしながら、強度設計を考えずに制作された Serpollet-Peugeotは500kmのテスト走行で蒸気ボイラー以外のありとあらゆる箇所が折れて壊れてしまった。それに失望した Armandは自動車の夢を一旦諦めることとなる。



1889 Serpollet-Peugeot


 一方、Daimler製ガソリンエンジンのライセンスを取得していた Emile Levassorは、エンジンの改良に全力を注いでいた。そのためには、鋼管やシートメタルの技術を持っていた Peugeotの力が必要と考えた。「協力して、ガソリンエンジンのクワドリシクル(4輪自転車のこと)を造らないか」と Emileは Armandに持ちかけたのである。Armandはこれに大いに興味を示し、1889年に Panhard et Levassorと Peugeot、Daimlerの3社会談は基本合意に達し、Peugeotは Panhard et Levassorから Daimlerエンジンの供給を受けて自動車の生産をすることになる。Armand Peugeot40歳の年であった。その後、数々の都市間レースに出場して名声を得、徐々に生産数が増大する。1897年、従兄弟達との共同経営であったPeugeot Frères Aînésから Armandは独立し Anonyme des Automobiles Peugeot(プジョー自動車株式会社)を設立する。19世紀末の 1899年には年間 300台も生産する一大自動車企業となった。



1902 Peugeot Type 48 Tonneau

単気筒 833cc 6.5hp MAX 37km/h.

 このクルマは100台が生産された。シャシーは自転車の技術を応用した鋼管フレームである。エンジンはクランクシャフトを進行方向に向けてドライバー前方に搭載。コーン・クラッチ→ダイレクトトップのギアボックスと縦に並べ、プロペラシャフトによるカルダン駆動となっている。システム・パナールと RENAULT特許によるダイレクト・ドライブ・シャフトを採用して、フロント・エンジン、リア・ドライブを実現した、近代的な初の Peugeotである。コラムの傾斜したステアリングが採用されたのは 1901年のことである。ギアボックスは2段。ピストンはスクエア(!)であった。この時代のクルマに共通だが、ブレーキが前輪には無いことにも注意。