1970 3rd TOKYO RACING CAR SHOW ガイドブック


ショーのイベント、ピットクルー・コンテストから。


3回目となると、無名プライベートが仕立てたマシンが一般に相当な人気を持つようになった。RQ(Racing Quarterly)やEVA*1といった振興メーカーが日産VSトヨタのような火花を散らす人気となっていた。それに林みのる氏の MACRANSAが絡む様相。益々、プライベートに目が離せない状況となっていたのだ。



MACRANSA KUSABI
林みのる氏の自伝「童夢へ」によれば、くさび形にした理由が面白い。安く手間ヒマ掛けずに綺麗なボディができるというのが理由だったようだ。ところがいろんなトラブルが起こり、突貫工事で見た目だけを完成させてショーに持ち込んだとのこと。決定的な遅れた理由は資金不足であった。ガイドではテストが終了していることになっていたのだが、とんでもない嘘だったのである。またレースには、コンレロ・チューンのアルファ・ロメオGTA用エンジンを搭載予定であったが、資金難により売却してしまい、手持ちのホンダ S800用エンジンが搭載されてデビューしている。くさびのボディに対しS800のエンジンは明らかにパワー不足であった。林みのる氏はこの時24才! 「くさび」による借金は1000万円と莫大なものであった。40年前の1000万円である。



SUZUKI BANKIN 72C
いすゞ自動車の板金下請けメーカーと知られていた鈴木板金が“69年日本グランプリ”挑戦のため開発したマシン。エンジンはスカイライン2000GTRのものが搭載された。ところが残念なことにテスト中にクラッシュして参戦することは出来なかった。
 社長の鈴木義雄氏は渡米してシェルビー・レーシングスクールに入校した経験がある。デイトナ500マイルでシェルビー・アメリカンのピットで観戦していた鈴木氏は、タイニー・ランドのフェンダーがクラッシュしたコブラを飛び入りでハンマーで叩き直し、その時の功績が認められて最優秀メカニック賞も受賞している強者である。



1950年、鈴木板金がCIA特務将校の求めに応じて制作した“イーグル号”。シャシークロムモリブデン綱によるチューブラー・フレーム。最高速度220km/h。




いまはトラック・メーカーだが、いすゞのレースへの挑戦は素晴らしいものがあった。カロッツェリア・ギアと組んだ綺麗なデザインのエキゾチック・カーも市販されなかった。



ファントム HONDA
都内のスピードショップ・ファントムの出展。HONDA N360のエンジンを搭載。ダンボール細工のようなFRPボディだが、財布の軽かった若者には現実的なものだったのであろう。



SUZUKI FRONTE RP
1969年、スズキが当時の軽自動車クラスのミニカー・レースにデビューさせたマシン。なかなか良くまとまっている。



HONDA KAMUI
現在10億円の企業脱税で服役中の本田博俊氏が、初めて制作したマシン。流石に御曹司だけあって、全てにお金と時間がかけられて美しいマシンに仕上がっている。ホイールも特注であった。名前のカムイは、当時人気を誇っていた白土三平の漫画「カムイ伝」から名づけたと言う。



CARMAN Apache
オーナーの林將一氏は林みのる氏の従兄弟である。なかなか綺麗な仕上がりであったようだ。



最後に、ガイドブックに掲載されていた広告から。

当時は大ピラに聞けなかったので、クルマの中で堂々と聞いていたそうです。需要があったのね。


以上、資料提供は亀有スロットカー仲間のUさんでした。有難うございます。

*1:実は林みのる氏が69年のショーカーには関わっていた。