偉大なるドライバー Rudolf Caracciola Part9 世界記録達成 432.692km/h

 1938年1月28日の早朝、スタートラインの松林の上に三日月があり、すべてのものが霜で白く覆われていた。松の木が月の光で光っていた。数十人の人がアウトバーンに集まり、心配そうに南の方を見つめていた。全員が予定時間にクルマが到着するのを待ちわびていた。7時少し前にトランスポーターは到着した。銀色に輝くクルマは、素早く大きなテントに隠された。誰かに大きな氷が砕かれるような奇妙な音を聞いてしまうかもしれない。速度記録車の最大の秘密「冷却装置」が知られてしまうのを MERCEDES-BENZチームは恐れていた。オブザーバーとして現場に来ていた AUTO UNIONの監督は、その奇妙な音に気付き驚いていたようだった。Neubauer監督が愛想笑いで声をかけると、彼は「氷のラジエター」をズバリ指摘した。Neubauer監督は答えに窮した。
 そうするうちに Caracciolaが現場に到着した。彼が人だかりしている方向に歩いていくと、主任技師で取締役の Seiler、そして Neubauer監督と Brauchitschがいた。3人とも厚いコートを着て彼を待っていた。
 「おはよう! どうだい素敵だろう? うまくいくと思うよ」
 Seilerが速度記録車を指さして言った。
 巨大なクルマが大地を抱くようにして、そこに佇んでいた。うずくまる銀色の怪物は月の光で白っぽく輝いていた。4輪はすべてカバーされており、このクルマでカーブを曲がることは不可能なことを示していた。ただ弾丸のように真っ直ぐ突き進むように設計されていた。
 Caracciolaは自分のクルマに Brauchitschを乗せてコースをゆっくりと走ってみた。松林は先端だけが眠そうにわずかに震えていた。この分では風による危険はなさそうだ。しかし、路面は滑りやすかった。松林の陰になった車線は霜に覆われていた。反対側は乾いていたが、巨大な速度記録車の車幅は道路の両側を占拠するほど大きかった。
  スタート地点に彼が戻ると Neubauer監督が尋ねた。
「いつスタートしたい、ルーディー?」
「十分暖かくなって、霜が溶けてからです」
霜が溶ける前にスタートするのは自殺行為だった。Caracciolaは体を暖めておくために道路を早足で歩きまわった。東の空がしだいに明るくなり、やがてタウヌス山脈の尾根からゆっくりと太陽が昇ってきた。8時には朝靄は消え去った。
 8時10分、Caracciolaはタバコをもみ消すとミンクのコートに包まれた妻にキスし、ダックスフントの愛犬 Moritzにじゃれてやり、それから銀色に輝く怪物に乗り込んだ。

 道路完全封鎖の報せが入って、監督は一瞬、彼の肩に手を置き、それからプレキシグラスのフードを閉め切った。監督の号令でメカニックたちがクルマを押し続けた。しばらくするとエンジンが怪物のような轟音をあげて始動した。監督の口の中は興奮と緊張でからからに乾いていた。

 8時20分、Caracciolaはガスペダルを慎重に踏みスタートした。ギアボックスはスムーズで楽にシフトできた。タイアの接地性の良さは大変素晴らしく、それは走り出してすぐに感じることができた。昨年のクルマとは格段に違っていた。
 スピードをあげるにつれ、前方に見える路面がどんどん狭まって見えるようになり、ついには白い1本のリボンのようにしか見えなくなった。道路両側に生えている樹々が固く黒い壁になった。
 旗が見えた。終わったのだ…… Caracciolaは怪物を惰性で走らせて停止した。
 メカニックたちが歓声を上げ、腕を振りながら駆け寄ってきた。彼らの騒ぎようは朝の静寂の中で奇妙なほど小さく聞こえた。
 Caracciolaはクルマから降りると一服し、貪欲に紫煙を吸い続け、他に何もせずに電話が吉報を知らせてくるのを緊張して待っていた。その間にメカニックたちは怪物の向きを変え、復路の走行の準備を済ませた。往復の平均速度が公式の記録として認められるのだ。
 ようやく男が駆け寄ってきて新記録 427km/hを達成したことを大声で教えてくれた。
 Caracciolaは手を振って彼に感謝の意を伝えると、再び走り出した。今度は初めからガスペダルを強く踏み込んだ。恐ろしいうなり声をあげながら銀色の怪物は疾走した。風が吹いた。かすかな朝のそよ風だったが、車体が右に流されるのを彼は感じ取った。繊細な操作で彼はステアリングを修正した。時速 400km以上という速度では1秒間に 100m以上を走ることになる、これはステアリングを1㎝の何分の1でも動かすだけで車体はコースを外れるか横転してしまうかもしれないのだ。
 加速が進むにつれて、路面は再び狭まって白い帯となった。そしてアウトバーンを跨ぐ陸橋は黒い小さなトンネルのように見えた。陸橋を通り抜けるためには遠くからステアリング操作をしなければならなかった。しかし、どうすればよいのか判断しているうちにクルマは陸橋の下を走り抜けていた。400km/h以上というスピードで彼は何度も奇妙な体験を味わった。
 開けた区間では気流の抵抗との戦いがあった。そして再びスタート地点に到着。旗が振られ、Caracciolaはガスペダルから足を離したが、ブレーキは踏まなかった。Continentalタイアのゴムは非常に薄く、わずかなブレーキ圧でもゴムが溶けてしまい、恐ろしい事態となるからだ。銀色の怪物はほとんど 3kmを滑走し、スタート地点に戻った。
 スタートしてから 30分後にすべては終わった。試験は成功した。Caracciolaは片道が 437km/h、往復の平均速度が 432.692 km/hの新記録を達成した

監督は大喜びでクルマに駆け寄った。新記録の達成をキャノピー越しに伝え、「もう一度やってみたいか」と Caracciolaに尋ねた。彼は横に首を振った。メカニックがネジを緩めてキャノピーを取り外した。空気だ新鮮な空気だ。彼は深々と吸い込み、生きている喜びを噛みしめているように見えた。
 「どうだった」と監督が尋ねると、Caracciolaは言った。
「クルマの調子はすごく良いです。でも、もっとスピードが出せますよ。ギア比が低すぎる。もっと高いのに変えて、明日もう一度やってみましょうよ」
2人が話し終えないうちに、人混みをかき分けて1人の青年が進み出た。彼はチロリアン・ハットを傾けてかぶっていた。Bernd Rosemeyerだった。
「やったねルディー。ちょっとお祝いを言いたかったのさ。こんどは俺の番だぜ」彼は微笑して言った。
「待てよベルント」Caracciolaは真剣だった。「俺だったら明日まで待つぞ、すごく嫌な横風が出ているんだ」
「心配するなよ。俺はツイているんだ」 Rosemeyerは笑いながら答えた。
 Caracciolaはクルマの中で待っている妻の元に戻り、何も言わずしばし2人は抱き合った。彼にはあの美しい銀色の怪物での記録走行が夢のように思われた。あの小さい黒いトンネルをどのように通り過ぎたのか、思い出そうとしてもできなかった。


Rosemeyer's Horch at Speed Record.

 Rosemeyerが Horchのクーペに乗り、コースを検査しに出かけた。Neubauer監督一行は暖かい朝食と軽い祝杯をあげにホテルへ戻った。ただし監督は食欲がなかった。全員がアウトバーンのことが気になったのである。
  Brauchitschが皆の気を見透かしたように言った。
「さあ、戻ってみますか。ルディーの記録がまだもっているか確かめなくちゃ」

 午前10時30分、Bernd Rosemeyerは新型のクルマで、第1回目のテスト走行の準備を整えた。AUTO UNIONの速度記録車は前後にエアロスカートが地面すれすれまで垂れ下がっているという先進的なデザインをしていた。Rosemeyerは白い矢のように飛び出し、全開走行をさせていないにもかかわらず片道で 449km/hのスピードを出していた。Caracciolaの記録は長くもちそうになかった。
 風はさらに強くなっていた。時速 50kmの横風が吹いている区間があった。AUTO UNIONの技術者が明日に引き延ばそうと提案したが、Rosemeyerは苛立ちながらそれを断った。急いで走らなければ明日の朝刊の記事に間に合わない。彼は回りの忠告を聞く耳を持たなかった。
 正午少し前に AUTO UNIONは地平線の彼方へ飛び去った。
 野外電話により状況が刻々と AUTO UNIONのフォイアライセン博士に伝えられた。Neubauer監督はその傍に立っていた。
「3km地点、通過」
「7.6km地点、通過」Rosemeyerはいま時速 400kmに達しているはずだった。
あと数秒間ですべてが決定する。
「8.6km地点、通過」
そのあと、電話は長い沈黙を続けた。フォイアライセン博士は指の関節が白くなるほど強い力で受話器を握りしめていた。
突然わめき声が聞こえた「9.2km地点、衝突」。



 Rosemeyerの担当メカニックがランゲンとモルフェルデンの橋の間を越えた時に、木立の切れ目に転がっていたクルマの残骸を見つけた。事故地点から 500mも離れた場所にそれはあった。シャシーは歪み、引きちぎられたボディーの破片が紙屑のように広範囲に散らばっていた。Rosemeyerの体は事故の衝撃で飛ばされて、松の木の幹に半分ほどもたりかかっていた状態で発見された。
 
 Grazer医師が深刻な顔つきで Caracciolaのクルマに来た。
「彼は死にました。森の中で仰向けになって空を睨んでいました。まるで、息があるようでした」医師はうなだれてクルマの脇に立ち尽くしていた。
 Caracciolaは身震いしながら彼の手を握った。




2:50頃から Caracciolaの速度記録挑戦の映像。