偉大なるドライバー Rudolf Caracciola Part8 速度記録 400km/hオーバーへの挑戦

 独裁者の提案による高速道路網“Reichsautobahnen”。フランクフルトからダルムシュタットまでの最初の区間は1935年に開通した。その直線区間による速度記録への挑戦が行われたのは自然の成り行きともいえる。国威高揚と自動車メーカーによる自社宣伝の思惑が一致したのだ。
 先鞭を切ったのは AUTO UNIONだった。Bernd Rosemeyerが 1937年10月、アウトバーンで速度記録に挑戦し、公道上で世界で初めて 400km/hを超え 406.3km/hの最高速度記録を樹立した。


Bernd Rosemyer's Auto-Union Type R Record Car.




Record drives on the Autobahn Frankfurt - Darmstadt, 11 November 1936: Rudolf Caracciola scored with the twelve-cylinder Mercedes-Benz W 25 international streamlined body with five class records and one world record.

Rosemeyerが速度記録を達成した一方、MERCEDES-BENZの速度記録挑戦の試みは芳しくないものであった。特別に設計された空力スペシャルは、400km/h以上になるとフロントがリフトするという危険な挙動を示していた。これにより速度記録への挑戦は断念されたのである。しかしながら彼らの技術陣が挑戦を諦めたわけではなかった。この経験が風洞実験に生かされ、ボディー形状が見直され、エア・インテークを塞いだ、空気抵抗の少ないクルマが完成したのだ。

 ところで、冷却用の空気が流入しない状態で、どうやってエンジンを冷やしたのか。それには原始的な方法が採用された。大量の氷を詰めた大型の容器が採用されたのである。加熱されたクーラントは、組み込まれた「冷却装置」に導かれていた。速度記録で走る距離は1マイルと1kmの計測区間なので、この短時間で氷が溶けてしまう心配は無用だったのだ。
 Untertürkheimの研究所には明け方まで煌々と明かりがつき、技術者の頭脳が最大限結集されていた。翌1938年1月、Caracciolaは記録車の完成を知らせる手紙をもらった。彼が自分の世界記録を破ろうとしていることを Rosemeyerは、ほぼ同時に知ることになる。AUTO UNIONのチーム監督が産業スパイで知りえたことを長距離電話で知らせたのだった。速度記録の挑戦は、ドイツ政府当局が指定する秋の1週間で行われるはずだと Rosemeyerは監督に抗議した*1MERCEDES-BENZが真冬の1月に速度記録に挑戦できたのは政治的な取引によるものであった。AUTO UNIONはこれに迅速に対応し、MERCEDES-BENZの鼻を明かすことにした。 Rosemeyerは新しいクルマを開発するには時間が足りないと異議を申し立てたが、AUTO UNIONは新型速度記録車のテストを既に行っており、昨年の記録車の空気抵抗を少し改良するだけでプラス 30km/hは向上するという計算になっていた。Rosemeyerは、それを聞き2度目の速度記録挑戦に同意した。
 1938年1月27日、Neubauer監督は Caracciolaと予備ドライバー Brauchitschを連れてフランクフルトに腰を据えた。彼らが宿泊したホテルは大戦前夜の前線司令部のようだった。国防軍将校に上級のSS官憲、秘密警察のゲシュタポ、速度計側官……ホテルのロビーはごった返していた。もちろん大勢の報道陣も集まっており、陸軍がアウトバーン閉鎖で召集されていた。特別の電話線が敷かれ、電気計測器も備えられた。
 ただ気象係員だけが、速度記録挑戦に非協力的であった。何日も寒風が吹き渡り、アウトバーンの路面は部分的にブラック・アイスバーンとなっていた。40km/hでも十分に危険な状況であり、ましてや 400km/hでは到底無理だ。速度記録の予定コースのストレートは矢のように真っ直ぐで、木立と藪で両側は守られていた。ただ1つ危険な個所は、横風を逃がすために作られた森林の切り通し区間であった。しかしだ、横風に吹かれながら速度記録を樹立しようとする者など誰もいないはずだ、と Neubauer監督は考えた。
 この日の午後、彼はフランクフルト空港の気象局にもう1度出かけ、最新の気象報告を尋ねた。係員は興奮しながら言った。
「天気は好天に向かいつつあります。明日の朝の5時には道路の氷が溶け、7時には乾くでしょう」
「それは良い。じゃあ、明日やりましょう」
「そうですね」と係員は同意したが、次の言葉を付け加えるのを忘れなかった。
「だが、あまり時間がありませんね。午前9時ごろには風が強まりますし、それ以降の見通しはわからないのですから」
 監督は Untertürkheimの研究所に急いで電話をかけた、なかなか繋がらず数分間が過ぎた。先方が電話に出た時、いまだ速度記録車の整備作業は続けられていた。
「明日だけが唯一のチャンスらしい、しかも外にいられるのは長くて2時間だそうだ、長くてもな。早朝6時までにはスタートの準備をしなくちゃならん」
電話は一瞬無言だった。
「がむしゃらに頑張れば、クルマは明日の朝2時までには仕上がります。あとは時間通りに、クルマがそちらへ到着すればよいのですが」
 その晩、MERCEDES-BENZチームの誰もが一睡もしなかった。ただ、Caracciolaは例外だった。彼はいつものように 10時にはあくびをし、落ち着き払ってベッドへ向かった。残った者たちはコーヒーを飲み、いつもの雑談で、気を紛らわし朝を迎えた。
 チーム専属の医者が入ってきて、数時間前に Bernd Rosemeyerが濃霧のため、フランクフルトの空軍の飛行場に不時着した、という報せをもってきたのは真夜中をとうに過ぎた頃だった。それ以前から、MERCEDES-BENZチームは AUTO UNIONも速度記録更新に挑戦するであろうという情報を握っていたのだが、いよいよ現実のものとなったのだ。これからの数時間は、予想以上に忙しくなるおそれがあると Neubauer監督は考えていた。

 翌日、1938年1月28日の早朝はひどく寒かった。
 そして誰もが予想だにしない、悲劇の1日が始まろうとしていた。

*1:速度記録は国営のアウトバーンで行われるため政府当局の許可が必要だった。