偉大なるドライバー Rudolf Caracciola Part6


Rudolf Caracciola won the 1936 Monaco Grand Prix at the wheel of a Mercedes-Benz W 25

 1936年、W25のエンジンはさらに 4.47リッターに拡大され、473ps/5800rpmとなり、よく言われる MERCEDES-BENZの不文律「シャシーはエンジンよりも速く」を逸脱してしまい、非常にコントロールの難しいマシンとなってしまった。
 Caracciolaの勝利の日々はこの年に終焉した。モナコでの開幕戦は得意なウェット路面で勝利、TunisGPでの優勝したが、他のレースは振るわなかった。ドイツGP、スイスGP共にリタイアで終わっている。最終的にチャンピオンシップは Bernd Rosemeyerが勝ち取った。
 Neubauer監督はその著書“MANNER, FRAUEN, UND MOTOREN”にて以下のように記している。

 この2人は年齢にしろ気性にしろ、その相違のなんと大きいことか! 9歳年上の Caracciolaは常に物静かで、寡黙であり、精神の集中と、自己規律には超人的能力をもっていた。この能力が世界的なドライバーたちの間で、何年間も彼の地位を守り続けさせただけでなく、多くの場合、その生涯の終焉を意味したかもしれない事故と私生活の悲劇に直面した時にも、その地位を守り続けさせてきたのであった。そして見落としてならないのもう1つのハンディキャップは、ドイツの民族主義と国威宣揚主義の高まりつつあったこの時代に、Caracciolaという名前がイタリア人のように聞こえたということである。
 Rosemeyerにはそのような制しがたいハンディキャップはなかった。彼はヨーロッパ・チャンピオンを勝ち取ったが、これは彼が絶大なる自信でもって花嫁を獲得したのと同じくらいの素早さであり*1 、しかも同じくらい簡単にみえた。

 さて、話をモナコに戻そう。どんよりとして雨が降りそうなレース当日、モナコの市街は灰色の霧に包まれていた。Caracciolaはスタートで7台のクルマを置いてきぼりにして先頭をきった。2周目にオイル溜りが路上に現れた。オフィシャルが接近するマシン(初めて MERCEDESに乗る Louis Chiron)に警告しようとしたが間に合わなかった。白い W25はスピンして土嚢で築いたバリケードに突っ込んだ。その直後、Alfa Romeoの1台も同じ運命をたどり、Brauchitschの乗る2台目の W25は、その Alfa Romeoにクラッシュした。次は Rosemeyerだった。彼は自分が通り抜けることができるかもしれない隙間を見つけた。彼が Brauchitschのクルマの後ろをひっかけた時、金属と金属が噛み合う音がしたが、彼は走り抜けた。次に来た2人のドライバーはこれほど無謀でもなかったし、これほど巧妙でもなかった。気の利くオフィシャルが一握りの砂をオイル溜りに撒いた。しかし丁度その瞬間に、Fagioliがそこに飛び込んできた。この重大な数秒間に彼の視界は遮られ、他のクルマ同様、バリケードに突っ込んで終わりとなった。
 MERCEDESチームの残った唯一の W25に乗るCaracciolaは、 Rosemeyerが先ほど走り抜けた隙間をやっとすり抜けた。
 その後、昔日のテクニックのすべてを駆使して彼は走り続けた。彼と共にモナコ市街を走ることのできたのは Varzi, Nuvolari, Stuckだけとなった。Bernd Rosemeyerは 13ラップ目に他のオイル溜りに乗り上げ、橋の欄干にクラッシュした。この衝撃で緩くなった欄干の飾り石が地面に転がり落ちた。後に Rosemeyerは石の飾りを腕に抱いて、にやにや笑いながらピットに現れた。
「本物のカップはとれなくても、少なくともこれだけは家に持って帰れるだろう」
 Caracciolaは Varziと Stuckを大きく離して、見事に雨のモナコで優勝し、銀行口座に 10万フランを加算した。Tunis GPでもモナコの優勝をもう一度再現し、5月まではグランプリの流れは Caracciolaに有利なように誰もが思っていた。 Rosemeyerはマシンが2度も火を噴きリタイアする目に合っていた。

 ところが、6月の Eifelrennenから流れは変わってくる。黒い霧の中、スタート10分前に AUTO UNIONは Rosemeyerのエンジン・プラグを全部「ソフト」なものに交換した。Porsche博士は「クルマを機関銃に換える様なものだ」と反対したが、雨の日には「ソフト」な方が長持ちするとチーフ・メカニックの Sebastianは判断した。
 はたしてレースは Rosemeyerの独壇場となった。MERCEDESチームは次々と脱落し、最後に残った雨に強い Caracciolaも故障で4周目にリタイアとなった。Rosemeyerは Nuvolariと壮絶な戦いを繰り広げ、1位を勝ち取った。
 次のドイツGP、 Caracciolaは燃料ポンプの故障で、クルマの放棄を余儀なくされた。痛む足を引きずりながら、彼はピットまでの数kmを歩いて戻ってきた。疲れ切った Caracciolaは指を脱臼してリタイアした Hermann Langのマシンに乗り、Rosemeyerを追い求めてスタートした。しかし、数周後、このマシンもエンジンが壊れてしまった。Chironが挑戦を引き継いだが、13周目にクラッシュ、幸い彼自身に大きな怪我はなかった。15周目に Caracciolaは Fagioliのマシンを乗り継ぎ、3度目の出走をしたが、それはあまりにも遅すぎた。Rosemeyerは気楽な勝利者となっていた。
 シーズンの初期に起きた機械的トラブルの原因を探るため、MERCEDES-BENZは W25の念入りなオーバーホールに入った。そのためスイスGPまでのノン・タイトル戦は不参加にした。
 そしてスイスGP、Caracciolaが Rosemeyerをぴたりと背後においてトップに立ったのは、スタートの旗が振りおろされたのと同時だった。それ以降、繰り広げられたのは、凄まじい接戦であった。数多いコーナーで、Caracciolaの経験とテクニックは彼をリードさせたが、ストレートではパワーが上回る Porsche博士によるエンジンを搭載した Rosemeyerはその差を縮めた。この状態が5ラップも続いた。オフィシャルにすれば、それは Caracciolaが走路妨害をしているように見えた。青い旗が振られて Caracciolaに右に寄るように伝えられると、彼は一瞬のためらいもなく、それに従った。しかしそれでもまだ、Rosemeyerは彼を抜こうとしなかった。理由は簡単明瞭であった。観衆が注目するホーム・ストレートで Caracciolaをぶっちぎりで抜くことを選んだからである。
 この奇妙な対決はあっけない幕切れで終わった。29ラップ目に、リアアクスルの故障で Caracciolaはリタイアとなったのである。Rosemeyerは勝利への疾走を続け、レーシング・ドライバーとなってわずか2年目で、ヨーロッパ・チャンピオンとなった。

*1:前年の1935年、Rosemeyerは Masaryk GPに優勝したが、その際に彼の首に月桂樹をかけた日焼けした若い女性 Elly Beinhornを射止めた。彼女は単身世界一周飛行を成功させていた。