偉大なるドライバー Rudolf Caracciola Part4

 1932年、Caracciolaは Eifel raceで優勝、European Racing Car Hillclimb、そして International Alpineのチャンピオンとなった。
 翌 1933年、ついにナチスが前年の民主的な選挙による第1党となった経緯により、ヒトラーが首相となった。世界の悲劇の始まりであった。宣伝相ゲッベルスユダヤ人実業家の国外追放を決め、国外に逃げることができない一般のユダヤ人は不衛生なゲットー地区に押し込めることとした。
 Caracciolaにとってもこの年は災難の年であった。1933年初頭に彼は Alfa Romeoから解雇されてしまったのである。同じ頃、Louis Chironも Bugattiを解雇されていた。意気投合した2人は、Alfa Romeo Gran Premio Tipo Bを購入し“Scuderia CC”を結成、Caracciolaは白地に青のラインを Chironは青地に白のラインでクルマを塗りレースに出場することとなった。しかし、モナコGPの予選で Caracciolaのクルマのブレーキが利かなくなり、ドリフトで横向きとなった状態で鋼鉄の塔に激突する事故が起きてしまった。大腿骨の複雑骨折で入院を余儀なくされた Caracciolaは、この年のレースを諦め、長期のリハビリに励むこととなった。大腿骨の骨折で彼の右足は5センチも短く接合されており、松葉杖で歩かねばならなくなったのだ。
 そして翌 1934年、失意にくれる事故後の彼を献身的に支えてきた最愛の妻に悲劇が訪れる。Charlyは Caracciolaのすすめで日帰りのスキーに出かけて行ったのだが、不幸にも彼女を雪崩が襲い、帰らぬ人となってしまうのであった。


International Klausen Pass Race on August 5, 1934: Rudolf Caracciola wins in his Mercedes-Benz W 25 750-kg formula racing car.

 1934年シーズン、クルマ好きの独裁者はGPレース1,2, 3位の賞金として年間45万マルクの奨励金を出すと発表した。Daimler-Benzは Neubauer監督の推薦で Caracciolaと契約した。アクセルとブレーキで酷使される右足の激痛に耐え、彼は見事にテストに受かったのだ。
 Daimler-Benzは重く時代遅れとなった SSKLの代わりの新型マシン W25を開発していた。これは新しいフォーミュラーの750kg以下にのっとって開発された。先代とは違い空力の良さそうなモダーンなボディを纏っていた。エンジンは直列8気筒 コンプレッサー DOHC 4Valve 314ps/5800rpm.これは明らかに Alfa Romeo Tipo Bを意識したものであり、エンジンの構造は基本的に 1922年以来採用してきたもので保守的な設計である。それとは逆にシャシーは革新的なものであった。足回りは前輪ウィッシュボーン、後輪スイング・アクスルという4輪独立懸架である。シャシー構成は徹底的に軽量化され、各部に肉抜き穴が綺麗に並び、ボディーを含め軽合金をふんだんに使用していた。ところがデビュー戦の Eifelrennen前日に計量したところ、車重が1㎏オーバーしていることに気付いたのである。徹底的に軽量化されたマシンに1㎏も削るところはなかった。だめもとで、Manfred von Brauchitschのひらめきによりボディーの白い塗装を剥がすことにした。一晩中かかって地金の銀色となったボディーは翌朝に再計測されて、ぴたりと 750㎏を指した。
“Silver Arrow”と称されたマシンは数時間後、Manfred von Brauchitschにより優勝した。Caracciolaは大事を取って、過酷な Nürburgringでのレースを棄権していた。“Silver Arrow”誕生の裏話である。
 9月9日の暑さの中で行われたイタリアGP、116ラップは走行距離 500kmにも及び、事実上耐久レースとなっていた。レースは Auto Unionの Hans Stuckがリードし、それを Caracciolaが接近して追走するという状態が 50ラップ続いた。そして57ラップ目、Caracciolaが先にホーム・ストレートに入った。数秒後 Hans Stuckが後タイアをズタズタに減らして、ピットインした。しかし過酷な暑さの次の犠牲は Caracciolaだった。首位を奪ってまもなくピットインした彼は、疲労のために失神寸前で、ステアリングに意識が朦朧としながらやっと手をかけている有様だった。ピットマンは彼を抱き上げてクルマから降ろし、Luigi Fagioliが乗り継ぎレースに勝利した。9月23日に行われたスペインGPでも Caracciolaは2位に甘んじていた。 Auto Unionと、それを追う Mercedes-Benz。2つのメーカーがレースを支配しつつあった。翌年もその激化が予想された。


Italian Grand Prix in Monza, September 9, 1934. The winner Rudolf Caracciola at the wheel of a Mercedes-Benz W 25.
あれほどGPを席巻した Alfa Romeo Tipo Bがはっきりと過去のマシンに見えるほど、 Mercedes-Benz W 25はモダーンに見える。


Italian Grand Prix in Monza, September 9, 1934. The winners Rudolf Caracciola and Luigi Fagioli.


8:00頃から W25とCaracciolaの映像。