1953(昭和28)年、日本の自動車事情


岩波写眞文庫『自動車の話』

1953年9月30日発行のこの本、定価は100円とある。ラーメンが35円、国鉄の1区間が10円の時代だ。
表紙の写真の道路標識が英語表記になっていることに注意。日本はこの2年前に“日本国との平和条約”にて主権を回復したばかりであった。この年の7月には朝鮮戦争の休戦協定が調印され、民放初の“日本テレビ”がテレビ放送を開始している。


運輸省自動車局の調べによれば、1953年5月現在、日本にはトラックが438,517台、バスが26,457台、乗用車は2輪軽自動車まで含めて330,546台となっていた。トラックとバスが圧倒的に多く、前年の1952年末では乗用車の3倍にも達していた。乗用車を保有していたのは一部の富裕層と、法人、そして官庁であった。
そして、全国の乗用車の3割強が東京に集中していたというのだから恐れ入る。

トラックやバスは戦後唯一の重工業として、国産車の生産が認められていたが、乗用車は昭和24(1949)年10月まで生産を禁止され、輸入も26年6月まで国内用には厳禁だった。その間、外人名義の3万ダイを乗回していた特殊階級もあったが、大勢はオンボロの木炭車だった。ところが26(1951)年、外車の輸入許可に続いてガソリンは統制撤廃になり、タクシー、ハイヤー、自家用車が続々と復活、木炭車はいつのまにか街から姿を消していった。だが、この新しい車の補充は、昨年末まで7割が輸入車と駐留軍(在日米軍)の払い下げ車で、わずかに3割が国産車だった。昨年中に輸入された外車は約11万台、国産車メーカーに大きな打撃を与えたが、小型タクシーの普及で一応この危機は救われたようである。しかしさらに通産省では、今年の計画として国産車の生産6千台、外車の輸入7千8百台、その比率が4対6という計画を立てている。このような外車の大量輸入に対して、国産車メーカーは一斉に猛反対を続けている。材料や新設備、機械などはどしどし輸入すべきだが、多量の完成車輸入はまったく腑に落ちないというのだ。だが、通産省の計画では、新しい乗用車の需要は毎年1万4、5千台はある。6千台そこそこの国産車生産ではとうてい追いつかない。次第に増産速度を早め、比率を逆転するほかにしかたがないとしている。
(1953年1月14日付朝日新聞朝刊より)

現在の日本で輸入車が占める割合は僅か7.9%にすぎないことを思うと、7割が輸入車だったこの頃は隔世の感がある。



当時、東京都内で見かけられた輸入車の写真が紹介されている。
文中では「アメリカ人は乗用車を靴下のようにはき捨てる。そして、家を1軒、赤ん坊を1人、クルマを1台という時代を卒業しつつある」と書き記し、敗戦国として耐久生活を続ける日本人の、アメリカを羨望する複雑な心境が垣間見える。
高級車はアメリカかイギリスばかりで、ドイツ車はVWビートルだけなのが時代を反映している。
FIAT 500C (現行の500Cではない)のワゴンが居たのには畏れ入る。この当時は何でも輸入されていたようだ。
旧ソ連のクルマとして紹介されているのは Povieda M20B、たぶんソ連大使館の車両であろう。

本書では技術も稚拙で品質も散々な状態であった国産乗用車は一切紹介されていない。
その頃、日産は自動車の技術を学ぶべく、イギリスはオースチン社のクルマの生産を、部品のすべてを輸入して組み立てるだけの完全ノックダウン生産から始めた。


Austin A40 Somerset
その形状から「だるまオースチン」と呼ばれていたそうだ。