LANCIA LUNCH 2010 その2 Lancia Aurelia B20 Gran Turismo


Lambda is great classic car that is likened to a vintage thoroughbred.
Among semi classical cars in the postwar period, I think Aurelia GT achieves the same level of Lambda.



ランチアは、第2次大戦後、かつてアルファ・ロメオに数々の勝利をもたらしたGPレーサーP2の設計者として名高い Vittorio Jano の協力を得て、世界初のV6エンジン、トランス・アクスル、全輪独立懸架の進歩的なアウレリアを完成した。これをベースにピニン・ファリーナのデザインで1951年にデビューしたのがアウレリアGT B20である。なおGT(Gran Turismo)という呼称も世界で初めて名づけられたもの。
基本的なメカニズムは1950年5月のトリノ・ショーで発表された最初のアウレリアB10と共通であった。エンジンは60°V6で、V6としては最大の4個のメイン・ベアリングとウェット・ライナーをもっていた。OHCではなくVバンクの間に1本のカム・シャフトをもっていたが、ややV型に開いた独特のプッシュロッドのために吸排気バルブはアルミのヘッドに52°のV型に配され、理想的な半球形燃焼室を形成していた。最初のB10は1800ccの56psであったが、51年のGT B20は2000ccの75psでスタート、後に2000cc、80psのものも作られた。この2000cc、75psのエンジンをB10のボディに載せたものがB21、同じく90HPのものがB22と呼ばれた。しかしGT B20のエンジンはすぐ2500cc、118psのものに発展した。




アウレリアの特徴はそのV6エンジンもさることながら独特のパワー・トレーンとサスペンションにあった。すなわち乾式単板クラッチ、2速以上シンクロメッシュのギアボックス、デフ、インボード・ブレーキはユニットで前後2本の鋼管のサブフレームに取付けられてから、4つの大きなラバー・マウントを介してモノコック・ボディに固定される。フロント・サスペンションはいうまでもなくラムダ以来のランチア独特のコイルと油圧ダンパーを内蔵したスライディング・ピラーであるが、リアは前方からのトレーリングAアームとコイルがホイールを吊り、片側2個づつのジョイントをもったオープンのハーフ・シャフトがトルクを伝える。この高度なメカニズムはロードホールディングを高めるとともに、前後の重量配分をバランス良くし操縦性を向上させることにあったが、事実アウレリアは当時のクルマとしては抜群の走行性能を発揮した。
この優れた走行性能が、前1280/後1300mmのトレッドをそのままにホイールベースを2860mmから2660mmに200mmも短くなったGTでさらに向上されたことはいうまでもない。ファスト・バックの美しい2+2クーペはピニン・ファリーナの傑作の一つで、このボディなしにはアウレリアGTの成功は得られなかったに違いない。なぜならこのボディの原型をピニン・ファリーナが1949年に当時のアプリリアシャシーに架装したカスタム・ボディにみることができるのだが、その成功がアウレリアGTを生む直接の動機となったからである。当初ピニン・ファリーナの工場で作られたボディは、後にはランチア自身の工場でアルミで作られるようになった。伝統的なモノコックのために自重は1100kgと比較的軽く、180km/h以上の最高速度を出した。




アウレリアGTのレースに於ける成功をあげれば数限りないが、いまだに語り継がれているのは1951年のミッレ・ミリアにおける大活躍であろう。この年デビューしたての2000ccモデルは、文字通り1000マイルの苛酷なレースでV12、4100ccのフェラーリに遅れること20分でゴール・イン、総合の2位に入るとともに、すべてのV12、2000ccのフェラーリを打破ってクラス優勝をも勝ちとったのである。次いで52年にはル・マンでクラス優勝、ミッレ・ミリアでは総合の3位、タルガ・フローリオでは1位から3位までを独占と次々と勝利を重ねていった。エンジンやサスペンションに多少の改造が行われていたのはいうまでもないが、市販のクーペがスポーツカー・レースで大活躍したという事実は、やはり驚くべきことである。


1954年に標準型のアウレリアが1991cc、80psのシリーズ2となったとき、アウレリアGTのリア・サスペンションも1/2楕円リーフによるド・ディオンに改められた。しかし1956年にアウレリア・ベルリーナがフラミニアに発展してからも生産は続けられ、1959年にフラミニア系のスポーツが現れるまで、実に8年もの長い間、2500ccクラス最高のグラン・ツーリスモとしての存在を続けたのであった。