STANGUELLINI STORY その10 モーター・スポーツからの撤退


1960年4月24日“Trofeo Vi”
写真中央、スタンゲリーニFJよりも小さく軽いミドシップのクーパー・マークⅠに注意。

1960年からFJに歓迎したくないジョンブルが参戦した。
ロータス18、クーパー・マークⅠ、そしてローラ・マークⅢ(1961年)といったミドシップのマシーンは、FRレイアウトにこだわるイタリア勢よりも明らかにコーナーリング・スピードが速く、スタンゲリーニの快進撃に歯止めをかけた。英国“FORD ANGLIA”やBMCのエンジンもパワフルで、フィアットランチアのものと同水準の信頼性を立証した。“Wainer”や“De Tomaso”といった新参組は別として、ミドシップをためらっていたイタリアのマシーン(F1のフェラーリでさえミドシップを躊躇していた時代だ)はまたたくまにレース・シーンから消えていった。

この状況を打破するため、ヴィットリオは、ついに1961年末ミドシップのFJ“Delfino”(イルカ)を送り出した。



“1962, DELFINO 1100 Formula Junior”
直列4気筒 OHV 1089cc 104ps/8000rpm

ボディはフェラーリ156F1"Sharknose"のようにフロントに2個のエア・インテークをもつ、モデナのカロッツェリア“Gransport”製で、エンジンはフィアット1300のものに小径ライナーを組み込んで排気量を調節(縮小)し、左に45°傾けて搭載した。ライナーの変更によって排気量を1100ccにしたのは、ストロークの加減によって排気量を合わせることをレギュレーションが禁じていたからだ。2基のツイン・チョーク・ウェーバー40DCOEキャブレターは水平型で、排気抵抗を抑えるため燃焼室から伸びるエグゾースト・パイプはキャブレターの上を這わせた。このユニットはこうした努力の結果、104psに達した。


しかし、1960年代初期のイタリア経済成長は、ピエモント、リグリア、ロンバルディアの産業三角地帯が発展し南部との格差が拡大し、南から北の産業地帯に170万人の労働者が移動。国際的、政治的、労働問題、経済的出来事が徐々に労働組合統一の新しい過程を生み出した。
労働組合の統一行動が1960年のミラノのフィアットのFIOM、イタリア金属機械連合FIM、金属機械労働者イタリア連合UILMから始まった。1961年賃金上昇と労働時間短縮による協定の季節が終焉、1962年から1963年に大闘争が起こった。
ピストンは“Borgo”、ベアリングは“Trione”、チェーンは“Erios”、バルブは“Frechia”、キャブレターは“Weber”、ブレーキは“Frendo”……といったように、多くのメーカーから部品を調達していたスタンゲリーニのような小さなコンストラクターを、日頃取引のない部品メーカーに頼らざるを得ない状況に陥らせたのである。これはスクーデリア・フェラーリも同じだった。そのため結局スタンゲリーニのミドシップ“DELFINO”はワン・オフに終わったのであった。

1963年までに開催された250回ものFJレースのうち、ロータスは100回、クーパーは58回、スタンゲリーニは20回、ブラバムは17回、ローラは12回優勝した。残りの優勝は当時100社以上がひしめいていた小メーカーたちのものである。
そして1964年、ヴィットリオとフランチェスコⅡ世は、彼らにとって最後のレーシング・カーである新しいフォーミュラ3に対応したフィアット・エンジンのモノポストを作りあげる。


“1964, Formula 3”
直列4気筒 OHV 988cc 96ps/8500rpm

しかし、新型マシーンも戦績は良くなかった。すでに陰りの見えたFJの戦績を考慮し、スタンゲリーニは経営の主力を新車販売とすることを決断していた。モデナのエミリア通りにいまもあるモダーンなビルを1962年にオープンさせていた。モデナ地方で最も大きなディーラーのひとつで、フィアットランチア、アルファ・ロメオを年間1000台も販売しているという。