STANGUELLINI STORY その3 戦争が終わって…

独裁者ムッソリーニが民衆によって葬られ、イタリアに平和な世界がもどってくると、ヴィットリオはふたたび高性能車のビジネスに力を入れ、スタンゲリーニのレーシングカー開発部門、
“Officine Stanguellini Trasformazione Auto Sport e Corsa”
マセラティのエンジニア、アルベルト・マッシミーノ“Alberto Massimino”(1895−1975)*1に委ねた。



“1947 1100 Sport Internazionale”
直列4気筒 OHV 1089cc 60ps/6000rpm

マッシミーノは750㏄、1100㏄クラスのクルマにスクーデリア・フェラーリマセラティが用いたことで有名となるチューブラー・ラダーフレームを採用し、フロント・サスペンションはフィアット・トポリーノのアッパー・トランスバース・リーフとロワーAアームを踏襲、アンダースラングのリア・サスペンションは縦置きリーフのリジットを用いた。エンジンはフィアットのOHVユニットをスタンゲリーニがチューンしたロングストロークで、ドライバーの重心を低くするために後端を右にオフセットした。
出力は750が36ps/6000rpm、1100が60ps/6000rpm、そして1500が80ps/6000rpmで、スポーツカーとモノポストのボディはスタンゲリーニで自社で製作した。

そして1947年シーズン、リゲッティ“Righetti”とアウリッキオ“Auricchio”は“Sport Nazionale Italian Championship”と“Sport Internazionale Championship”のカテゴリーでチシタリア*2フェラーリといった強豪がひしめくなか、約10台のスタンゲリーニを使い、37回ものクラス優勝を果たした。



その年の6月1日には、ヴェルツェリ“VERCELLI”のロードレースでスタンゲリーニ“1100”は、クラス優勝車であるフランコ・コルテーゼの1.5リッター“FERRARI 125”を上回る平均速度を叩き出した。これに衝撃を受けたエンツォは、自社製のレーシングカーにリゲッティを乗せ、7月20日フローレンスのサーキットに出場させたが、結果はボネットの巨大なドラージュ3000とアウリッキオの小さなスタンゲリーニ1100に次ぐ3位だった!



1949年にはクローズド・ボディの1500ベルリネッタをルマン用に製作、一説によるとユーノディエールのストレートで210㎞/hを達成したという。実際のルマンには参加していない。



“1947,FIAT Stanguellini 1100 Sport bodied by Ala d'Oro”

上記のクルマのクローズド・ボディもある。


1949年のモデナで行なわれたモーター・ショー。飛行場が会場となっており、スタンゲリーニはフェラーリ(後方)と共同でブースを出した。


翌1950年にはセルジオ・シギノルフィ“Sergio Sighinolfi”が操る1500モノポストが多くのレースで優勝した。

*1:トリノ生まれ。スイスで工業技術を学んだ後にフィアットに入社(1924-1928)、ジョアッキーノ・コロンボの下でアルファ・ロメオに移籍するまで働く。1500cc、12気筒の806/504に携わる。その後、スクーデリア・フェラーリ(1938-1944)に籍を置くまで、アルファ・ロメオとスタビリメンテ・ファリーナに短期赴任。コロンボと共にTipo158の開発に参加、その後マセラティ(1944-1952)に移る。名GPカーの250Fの設計を行なう。その後、フェラーリのGPカー“Dino”の設計にも参加。スタンゲリーニとは短発契約で設計に携わった。

*2:当時はカルロ・アバルトが在籍し、ドライバーはヌヴォラーリだった。