アルファ・ロメオ 100年の栄光と衰退 その6 【番外編】アルファ製のベンツ・エンジン

 第二次大戦中、国営企業アルファ・ロメオは、一時的に自動車の生産をストップ。航空機エンジンや軍用車両の生産をしていたことは「その4」で書いたが、その実態は悲惨なものだった。

 1940年、ヒトラーに付き合う格好で第二次大戦に参戦したイタリア。1930年代にはいろいろ速度記録なんぞ樹立していたものだから航空機には自信があったようだ。ところが北アフリカの空で英国空軍にコテンパンにやっつけられてしまったのだ。

イギリスのカモとなった戦闘機がコレ↓

“Macchi MC.200 Saetta*1
レベル社のプラモデルの箱絵だが、逆さまに描いているものは初めて見た。よっぽど売れないと思ったのだろうか。

 クラシカルな半開放式のキャノピーに、時代遅れの空冷星型14気筒フィアットA74RC38エンジンは840psと非力で、ライバルの英国機ハリケーンスピットファイアが搭載する液冷V12気筒ロールズロイス・マリーンエンジンが発生する1000〜1400psには遠く及ばなかった。

“Macchi MC.200 Saetta”の設計者マリオ・カストルディは「正面面積が小さい強力な液冷エンジンを搭載すれば機体のポテンシャルを引き出せる」と考えていた。しかし、そのような高出力の液冷エンジンなんぞ当時のイタリア工業力じゃできるわけもなかった。
 そこで白羽の矢が立ったのが、同盟国ナチス・ドイツの液冷倒立V12気筒ダイムラー・ベンツDB601。こいつは1175psの大馬力を発生していた。

ベンツのエンジンを搭載した改良型がコレ↓

“Macchi M.C.202 Folgore*2
とたんにイタリアン・スタイルの華麗な機体となった。

 1940年8月に試作機が完成。高性能を発揮し、さっそく量産化が決定した。ダイムラー・ベンツDB601エンジンもライセンス生産することとなったが、それを担当したのが何とアルファ・ロメオだったのだ。ついこの前まで、グランプリで熾烈な争いを繰り広げたライバルのエンジンを製造するとは……アルファ・ロメオの悲劇と言ってよいだろう。
 “Macchi M.C.202 Folgore”は期待通り連合軍戦闘機と互角の性能を発揮した。しかしそこで足を引っ張ったのがアルファ・ロメオだった。アルファは戦前まで高級スポーツ車の少量生産メーカーであったため、大量生産には組織自体が慣れていなかったのだ。さんざんの軍からの要請にもかかわらずDB601エンジンは月産50基を超える程度であり、おかげで“Macchi M.C.202 Folgore”の生産もさっぱり進まず、1943年のイタリア降伏まで1500機程度しか生産されなかった。
 
 イタリア軍はさらなる性能を求め、DB601の発展型で1475psのDB605エンジンもライセンス生産した。さすがにアルファ・ロメオに任せられず、今度はフィアットが生産し、RA1050RC58エンジンその名も“Tifone*3”となった。これを搭載したイタリア戦闘機はどれも素晴らしい性能を誇ったが、時すでに遅しとなってしまったのだ。

ティフォーネ・エンジンを搭載したイタリア軍最強戦闘機がコレ↓

“Macchi M.C.205 Veltro*4
最高速度640㎞/hの機体は、連合軍のP-51マスタングと互角だったと言われている。

*1:矢の意味

*2:稲妻の意

*3:台風の意

*4:猟犬グレイハウンドの意