アルファ・ロメオ 100年の栄光と衰退 その5 偉大なる戦前派 158/159 Gran Premio

“Museo Alfa Romeo”の展示の中で、間違いなく最高の存在であるのが“Tipo 159 Alfetta*1”だ。
 あの偉大なるファンジオによって戦後のグランプリを席巻したマシンを、この目で見ることができた感動は忘れられない。

 このクルマのヒストリーは故中村良夫*2さんの文章を引用しよう。



1951 159 Gran Premio
直列8気筒 DOHC スーパーチャージャー 1479cc 425ps/9300rpm

 

コロンボ*3の設計主題は流麗でコンパクトな1.5リッター・ヴォアチュレットとすることであった。
 58パイX70mm1479㏄、ツイン・オーバーヘッド・カム16バルブの直列8シリンダーで排気弁は航空エンジン方式のナトリウム封入型である。
 軽量かつ高剛性が考慮された一体クランクを8ケの平面軸受で支え、単段ルーツ型過給によって7000回転195馬力を発生した。
 4速ギアボックスはエンジン直結型である。
 フレームはエンジン及びリア・ファイナル・ドライブを横方向強度メンバーとして利用したパイプ・フレーム形式であり、戦後の軽くて剛性の高いパイプ溶接構成のマルチ・チューブラー・スペース・フレームの前身的な構成である。
 前輪はポルシェ・タイプのダブル・トレーリング・アーム、後輪はスウィング・アクスルの4輪独立懸架であり、前後とも支持バネは横置きリーフ・スプリングであった。
 このクルマに Tipo 158 の呼称がつけられ、1938年デビュー戦となったレグホーンで早くも1−2位を独占し、モンツァでもワン・ツーと圧勝した。


“Alfetta”のエンジンは完成された美しさがある。1段目のルーツ・スーパーチャージャー入口に配された3チョーク・ウェーバー・キャブレター、2個のマレリー・マグネトー…。戦前型レーシング・エンジン技術の集大成なのだろう。1.5リッターで425馬力と云うスペックは、80年代初頭のF1、1.5リッター・ターボに匹敵する高性能だ。

 

ところが翌1939年に入ると、予期せぬ事態が発生した。即ちシーズン第1戦となるトリポリ(北アフリカ)に、最大限の物量を投入したメルセデス・ベンツが超特急作業で3.0リッターのグランプリカーから1.5リッターにスケール・ダウンした250馬力のV8車を出走させることを決定したのである。メルセデスとすれば、グランプリから逃げ出したイタリー勢を小型車でも叩いておいて、ベンツの技術を誇示すべきであると考えたのである。
 小型メルセデスを迎え撃つために、コロンボはティポ158のクランク系を、簡潔な平面軸受から転がり軸受支持に変更して7500回転までクランク・スピードを上げて225馬力を稼いだ。
 しかしトリポリでのアルフェッタはオーバー・ヒートに悩まされ、メルセデスの急造1.5リッターV8は1−2位を独占してしまった。
 アルファ・ロメオはこのオーバー・ヒート・トラブルをラジエター及びボディ改造によって解決し、レグホーン、ペスカーラ、ベルン(スイス)で快勝した。
 翌1940年に対してドイツ勢はさらに積極的にアルフェッタ打倒の準備を進めていたが、40年をまたずして全世界は第2次世界大戦の戦火に捲きこまれてしまった。

 1946年、7年間を戦争で中断されたグランプリが再会されたとき、フォーミュラは1.5リッター過給あるいは4.5リッター非過給と決まって、アルファ・ロメオ158は戦前の小型フォーミュラではなく今度はグランプリカーのカテゴリーに入った。
 そして、レース・コースにはすでに怒涛のドイツ車の姿は見られなくなっていた。
 戦前の主任技術者となったオラツィオ・サッタ Orazio Satta は、158を2段過給とすることによって245馬力にまで出力向上して、1946年ジュネーブ、ミラノ及びトリノを勝ち、翌1947年はさらに275馬力に上げて、ベルン、スパ、パリ、ミラノ、翌48年はベルン、ランス、トリノモンツァを勝っている。この時点では8500回転310馬力にまで出力向上されていた。
 1949年シーズンは3人のワークス・ドライバーの死(バルツィ Varzi、ウィミュ Wimille はクラッシュで、トロッシィ Trossi は病気で)ということもあり、レースを中止している。
 1950年新しく組織されたFIAによって世界選手権が設定されて、この年8600回転350馬力にまで向上した158にとっての“黄金の年”となった。イギリス、モナコ、スイス、ベルギー、フランス及びイタリー・グランプリを含む全11のレースに快勝して、アルファのNo1ドライバー、ニノ・ファリーナ*4“Nino”Farina は第1代ワールド・チャンピオンの栄誉に輝いたのである。
 ただし反面、この年すでに新興のフェラーリは4.5リッター自然吸入の“新しい時代の”、あるいは“次に来るべき時代の”グランプリカーを出走させており、この1938年生まれの戦前派のアルファはすでに世代交替に近づいている観であった。
 新鋭フェラーリを迎え撃つために、158はさらに9600回転まで高速化されて420馬力を発揮したが、このために燃料消費ははなはだしいものになり、巨大な燃料タンクを積み込むために後輪をスウィング・アーム型式からド・ディオン型式に変更した。即ちアルファ・ロメオ159となった。
 結果として1937年コロンボが考えたスリムで流麗なレーサーはスタート全備重量1.2トンに近い重量車となり、1㎞/ℓという戦前の怪物ドイツ車なみの燃料大食い車となってしまった。
 1951年、アルファは最初の3レース即ちベルン、スパ、ランスでは勝ったが、次のイギリス・シルバーストーンでは完全にフェラーリのゴンザレスに牛耳られてしまう型となり、この不世出の名車にも最後の幕が近づいていた。
 ただし、フェラーリのタイヤ選定ミスということもあってファンジオはシーズン最後のスペイン・グランプリで159を勝車とし、前1950年に続いて再びアルフェッタという偉大な戦前派の最後の舞台となったのである。
 戦前型の高過給エンジンの時代はすでに終わっており、吸入効率を飛躍的に高めかつ排気の脈動を効果的に利用しようとする新しい型の自然吸入エンジンは、高過給高速エンジンにくらべて格段と高い総合熱効率を発揮させることが可能であり、グランプリはほんとの意味での新しい“戦後”になってきていた。
 歴史に輝くグランプリカー・アルファ・ロメオ・アルフェッタ158/159も実舞台から去る時が来たのである。
(以上、中村良夫著『レーシングエンジンの過去・現在・未来』より)


コクピット後方の巨大な燃料タンクに注意。


サイドミラーがカウル内側にある。こんな位置で見えるのか?


ファンジオの伝記映画より、アルフェッタでモンツァを走るファンジオ。なんと半袖ポロで鼻歌で425馬力の怪物を操っている!! もちろんシートベルトなんぞついてはいない!!

*1:小さいアルファの意

*2:初代ホンダF1チーム監督

*3:ジョアッキーノ・コロンボ…ヴィットリオ・ヤーノの見習いとして働きはじめ、後にスクーデリア・フェラーリの責任者となった。

*4:ピニン・ファリーナの兄の息子