アルファ・ロメオ 100年の栄光と衰退 その4 ファシズムの嵐の中で

 1932年末、アルファ・ロメオは大変革を迎える。イタリア政府組織であるI.R.I.(産業復旧公社)がアルファ ロメオを買収し、レースからの撤退を発表した。表向きの理由は、「1932年にアルファ・ロメオの車は無敵であることが証明されたから」ということであった。実際には1929年の世界恐慌で、その経営は危機を迎えていたのだ。四つ葉のクローバーに代わって、「スクデーリア・フェラーリ」の跳ね馬を付けたミラノの赤い車が、以前と同じようにアルファ・ロメオの代表としてレースに参加し続けることとなる。
 一方、フィアットからやってきた新しいトップ、ウーゴ・ゴッバートの指揮により、工場は近代化され、大量生産が導入され、トラックやバス(!)の生産も始まることとなる。アルファ ロメオを救済するために呼ばれたゴッバートは、一時的に自動車の生産を中止し、航空機エンジンと軍用自動車を優先して生産することを決定する。
 
 ここでちょっとエンツォ・フェラーリとアルファの関係に触れておこう。フェラーリがアルファに入社したのは第1次大戦後間もなくのことで、すなわちアルファ・レースチームの有力なメンバーとなり、後にチームの総監督として幾多の勝利をアルファにもたらした。1929年、アルファが会社としてレースヘの参加を止めると、フェラーリは同社を辞し、有名な黒い跳ね馬を紋章とする彼自身のチーム、スクーデリア・フェラーリを創設してレース活動を続けた。彼の言葉を借りれば、“アルファが一旦置いたたいまつの火を代ってとり上げた”のであった。彼のチームに属したドライバーは、ヌヴォラーリ、タルッフィー、トロッシ、シロン、カムパーリ、ドレフュス、ヴァルツィ、ファリーナ(ピニン・ファリーナの甥)等を始め、1929〜39年頃の殆んどすべての一流ドライバーが含まれていた。

 30年代後半には、アルファ・ロメオは大好況を迎えるが、継続していたレース活動の規模は縮小されたままだった。37年、ジョアッキーノ・コロンボがヴィットリオ・ヤーノの後を継ぐと、翌38年には再びレース専門部門「スクデーリア・アルファ」が創設される。だがレース活動は、政治情勢や制裁措置の影響を受けるようになり、ムッソリーニはイタリア人ドライバーがフランスのレースに出ることを禁止、39年の「ミッレ・ミリア」は中止されてしまう。航空機エンジンの生産が強化され、新工場の建設工事がパミリャーノ ダルコで始まった。
 第二次世界大戦にイタリアが参戦すると、アルファ・ロメオは組織としてありとあらゆる問題を抱える。部品はますます入手が困難になり、ポルテッロ工場は1940年、43年、44年と3度の爆撃を受け、3度目の爆撃によって生産活動はほぼ停止してしまうこととなる。


1939 6C 2500 SS CORSA
直列6気筒 DOHC 2443cc 125ps/4800rpm 最高速200㎞/h

トゥーリングによる美しく力強いボディは“Ala Spessa”(厚みのある翼)と呼ばれている。1939年のリビアトリポリ- トブルク間1500Kmレースに出場。1〜3位を独占。優勝車の平均速度は141.416㎞/hだった。



1935 TIPO C GRAN PREMIO(12C36)
V12気筒 DOHC 4064cc 370ps/5800rpm 最高速290㎞/h

 アルファ・ロメオとして初めての近代的なGPレーサーで、全輪独立懸架を備えたシャシーにV12気筒を搭載。更に翌年にはV12 4492cc 430HP/5000rpm の12C37に脱皮して行った。しかしアルファの総力を結集したV12レーサーをもってしても、Dr. ポルシェのアウト・ウニオンやDr. ウーレンハウトのメルセデスには歯が立たず、僅かにアメリカのヴァンダービルト杯を得たに止まった。
 1935〜39年シーズンのグランプリは全くドイツ勢の独壇場で、ブガッティはGPレースを断念してスポーツカーに専念し、マセラティも退き、アルファが独り苦しい戦いを続けていた。グランプリレースはもはやスポーツではなく、全体主義国家の国威発揚の手段に堕したのである。歯には歯を、というわけで、ムッソリーニに牛耳られたイタリアのレース主催者は、突如1939年シーズンの直前になって、来シーズンにイタリー国内で行われるレースは1500ccに排気量を限ると発表したのである。
 これは連戦連勝に酔うドイツ勢にとってはまさに寝耳に水であったが、アルファにとっては天来の福音だったのである。というのは、アルファはすでに事前にこの新フォーミュラについて知らされており、アルフェッタと呼ぶ1500ccレーサーを準備中だったからである。アルフェッタは全輪独立懸架の軽いシャシーに、スーパーチャージャー付8気筒1479cc(58×70mm) 195HPを載せた進歩的なデザインで、トリポリのレースを独占するはずであった。ところがである。メルセデスの技術陣は僅か6ケ月の短期間にV8 1.5リッターのレーサーW165を2台完成し、辛くもトリポリレースに間に合っただけでなく、驚ろきあわてるアルファを尻目に、堂々1−2位を獲得するという放れ業を演じたのである。W165のエンジンは2段スーパーチャージャー付で出力は278HP/8250rpmを出し、200HP程度のアルフェッタを傍へも寄せつけなかった。
 そのアルフェッタが活躍するのは大戦後のこととなる。