アルファ・ロメオ 100年の栄光と衰退 その7 廃墟からの復活

 戦後アルファ・ロメオの工場は他の枢軸同盟国同様に、連合軍からの空爆により壊滅的な状況となっていた。しかも世界の経済状況は、とても少量生産の高級スポーツ車を受け入れる状態ではなかったのだ。

そこで製造されたのがコレ↓

誇らしげに“ALFA ROMEO”と書かれたモノとは何だ?
正解は…。



1946“電気-ガス調理機!!



船舶用エンジンや、航空機エンジンの生産も再開された。


 自動車の生産は、まず戦前の“6C 2500”を復活することで再開となる。


1949 6C 2500 Villa d'Este
直列6気筒 DOHC 2443cc 110ps/4800rpm 最高速165㎞/h

アルファはこの 6C 2500 をもって高級車の少量生産をやめ、量産メーカーへと転換を図ることとなる。これが最後の伝統的なアルファとなる。その6気筒DOHCの2.5ℓ 110psエンジンを持つシャシーには、様々なボディが架装されたが、このトゥーリング製の“ヴィラ・デステ”と名付けられたクーペが最高傑作であろう。ハッチバックの147のグリルは、この“ヴィラ・デステ”のデザインをモチーフとしているのは有名な話。


 ある統計によれば、1910年から1952年の最後の6C2500までのアルファ・ロメオの総生産台数は、1万2868台にすぎず、いわばレースに勝つことだけがその存在意義であった。これに対し、ピークの1980年代には年間21万9571台を送り出している*1。一握りの裕福な階層の住む天上界から、われわれの住む地上へ降りてきたのが戦後のアルファ・ロメオなのだ。その第一歩を記したのが、戦後のチーフ・エンジニア、オラツィオ・サッタの下で1950年に誕生したこのアルファだ。


1950 1900
直列4気筒 DOHC 1884cc 90ps/5200rpm 最高速150㎞/h

1900の一般へのデビューは1950年10月のパリ・サロンだが、この時の人々の反応は様々であった。戦前からのアルファ・ロメオに敬意を払う人々にとっては、アルファ・ロメオが1900の出現と時を同じくして歴史あるグランプリレースから撤退してしまったから、この安物アルファの出現は、同社の堕落そのものに映り、ひどく失望落胆した。しかし、冷静に見れば、機構的にはツインカムやフルシンクロ・ギアボックス*2など実用的なサルーンには望みえないクォリティーとパフォーマンスを備え、それが、同クラスの実用サルーンであるフィアット1900の5割増し程度の価格(発売時で231万リラ)で誰にも手に入るようになったのだから、予想どおり発売と同時に大きなヒットとなった。
(SCG02号より)

*1:2010年現在のアルファは、6車種総計で年間10万台、80年代の半分でしかない。フィアットのマルキオンネ会長が怒るのも無理もない。

*2:当時アメリカで流行していたコラム・シフトであったが。