TOYOTA MUSEUM CLASSIC CAR FEST  1961 Triumph Italia 2000 Coupe


 Triumph Italia 2000 Coupéは、1952年から1962年までの間に僅か 329台のみが生産された貴重なクルマである。Giovanni Michelottiによるデザインは、まさにイタリアの小粋なスポーツカーそのもの。Triumph TR3のシャシーにイタリアはトリノの Alfredo Vignaleがボディを架装。メカニカル部品も TR3のものが流用されている。
 当時、イタリアのナポリで Triumphの代理店であった CESAC社の Salvatore Ruffinoは、もっと美しいデザインの Triumphのクルマを造れば売れるだろうと考え、1958年のトリノ・モーターショーで2座のクーペを展示する。果たして Italia 2000は「イタリアの芸術とイギリスの技術との融合」と喝采を浴びる。



1958 Turin Motor Show Prototype


 ショーでの好評を受け、Vignaleは同年7月にプロトティーポのフロントエンドとヘッドライトなどの変更を行い、生産型の製造に取り掛かった。これにより Michelottiの Maserati 3500のようなイメージのデザインとなった。アルミニウムのボディはスチールに変更されている。マフラーは個性的で音の良い Ascari製が取り付けられた。Triumph製のオーバードライブのスイッチは、シフトノブ手前から、ダッシュボード左端に移設され、素早いシフトが可能となった。



イグニッション左側にあるのが、オーバードライブのスイッチ。



とても TR3(left)がベースとは思えないほど Italia 2000 Coupeはモダーンだ。



 Ruffinoは、北米市場を視野に 1000台規模の生産を計画し実行に移す。当時 720店舗あったTriumphのディーラーとも販売契約を結んだ。しかしながら Triumph社は懐疑的で、カタログモデルにすることは拒まれることとなる。果たせるかな、金融と労働問題により 1961年に Triumph Motor Companyは Leyland Motorsの傘下となってしまう。これが Triumph Italiaの生産販売に大きな影響を与えた。まもなく Triumphは Triumph Italiaの製造支援を中止。同じ Michelottiによるデザインの TR4の製造に力を注ぐこととなる。
 Triumphの撤退にも拘らず、Ruffinoは Italia 2000として販売を継続した。最も売れたのは北米市場で、マサチューセッツ州の Stutz Plaisted Importsによるものであった。1962年に製造は中止となったが、最後の在庫が完売するには3年後の 1965年を待つことになった。それには理由があって、$5,000(現在の価値で 1800万円ぐらい)という販売価格があまりにも高価だったことが大きい。これはスタンダードの TR3よりも $1,000も高かったのである。



Triumph公認時のカタログ。


Italia 2000 Coupéのカタログ。Triumph非公認なので Triumphの文字が無いことに注意。