Le Mans Classic 2012  1GRID 1923 - 1939+ Entrants Part 10  Lorraine Dietrich


1925 Lorraine Dietrich B 3/6 Sport
Lorraine-Dietrich 3473cc 6cyl.

 Lorraine-Dietrichは 1896〜1935年に存在した自動車と航空機エンジンのメーカー。元々は Jean de Dietrichが起業した蒸気機関車のメーカーだったが、ガソリン自動車のメーカーと生まれ変わった。 普仏戦争( 1870〜1871年)では兵器製造で同社の工場がフル稼働し、大儲けしている。
 1896年、同社 Lunéville工場のマネージング・ディレクターであった Turckheim男爵は、Amédée Bolléeの設計による自動車製造の権利を買い取った。それは運転先の前に水平対向2気筒エンジンを搭載し、ベルト・ドライブで後輪を駆動する。当時としては珍しいガラス製のウィンド・シールドを備えていた。ライトはアセンチレン・ランプを装備していた。当初は Bollée社から完成エンジンを供給してもらっていたが、最終的には100%自社製造となった。



 1898年、de DietrichはParis-Amsterdam Trialに参戦するため Torpilleur (魚雷) racerをデビューさせる。4気筒エンジンを搭載し、前輪は独立懸架で低いボディそしてフロントウィンドウは傾斜しているという進歩的な設計となっていた。レース途中でクラッシュしたが、3位を維持してフィニッシュ、そのレース結果が幸いして総額100万フランもの受注を受けたと言われている。
 翌 1899年度はツイン・キャブレター4気筒エンジンをリアに搭載するなど意欲的なものであったが、クルマの熟成不足で Tour de Franceでは不本意な結果で終わっている。レースへの挑戦という技術者にとっての誘惑を跳ね除け、de Dietrichはレースからの撤退を決める。これにより21世紀越えて企業は存続することとなった。
 1902年、de Dietrichは弱冠 21歳であった Ettore Bugattiを技術者として雇うこととなる。Ettoreは4気筒OHVエンジン、4段ギアボックスのクルマを開発し当時の Car of the yearを受賞していたのだ。翌年 30/35を設計すると、Ettoreは Mathis社に移籍する。
 その後 1907年には Isotta-Fraschiniを短い間だが買収し、彼らの設計したOHCエンジンを搭載したクルマを2車種発表する。
 当初はチェーン・ドライブであった Dietrichも 1914年までにはシャフト・ドライブに変更された。



Lorraine Dietrichの航空エンジンを搭載した Fokker D-XVII



 第1次大戦後、軍需産業としてフル稼働した Lorraine Dietrichは自動車の生産を再開する。
 1919年、新しい技術者 Marius Barbarouを迎え入れ、意欲的なクルマを送り出す。 B 3/6は新開発のエンジンは直列6気筒 OHVヘミ・ヘッド 3445cc アルミ製のピストンと4ベアリングのクランクシャフトを備えていた。
 1924年、第1回のル・マンでは2〜3位を独占。第2回目のルマンに於いて#5 Gérard de Courcelles / André Rossignol組が優勝、翌1926年では見事1〜3位を独占するという快挙を成し遂げた。これはル・マン初の2年連続優勝したクルマとなったのである。



 その後、de Dietrich一族の希望もあり自動車会社は売却されて、車名は Lorraineとなった。1935年、最終的に自動車部門は不採算となり撤退することが決められた。その後は軍用車の製造で生き残ることになる。特にナチス・ドイツに大量に鹵獲された装甲トラクター Lorraine 37L
が有名。





Lorraine 37L