The Legend of Tazio Nuvolari Part 4
Ansaldo*1 4CS
Nuvolariは1921年の春から、本格的に4輪のレースに顔を出すようになった。この頃乗ったクルマは、Bianchiや Ansaldoである。
数年間、あまりぱっとしない成績の初心者時代を過ごしてから、1924年に Genovaで開催されたレースで初優勝を遂げた。Nuvolariの Bianchiは、ライバルと比べて性能が劣るクルマでありながら、あれよあれよという間に、一流レーサーたちの Alfa Romeoを抜き去り、2位に 48秒の差をつけて優勝した。新聞記者たちはこぞって、この新人の将来に注目した。
新聞記者たちの期待は裏切られることは無かった。この初優勝をきっかけにして、Nuvolariの快進撃が始まったのである。同年、モーターサイクルでもイタリアの国内チャンピオンとなっている。
1925 Alfa Romeo P2
翌1925年、MONZAでイタリアGPが開催されることとなった。当時、イタリアで最も速いマシンは Alfa Romeo P2であった。2年前に Enzo Ferrariによる画策によって FIATから引き抜かれた天才技師 Vittrio Janoによる傑作マシンである。Janoが傑作GPマシンであった FIAT 804/805の基本設計を忠実に取り入れて熟成させたマシンが速くないわけがなかった。
その P2のテスト・ドライブを行うチャンスが Nuvolariにも回ってきたのである。グランプリ開催前にテストは行われた。走り出してすぐに、Bianchiとの違いはハッキリとわかった。
「なるほど、こいつは良いクルマだ」
Monzaを数ラップした後に、拙いことに Nuvolariのいつもの悪い癖が出てしまった。
「もっとスピードが出そうだ。このマシンの限界を試してみよう」
再び Nuvolariは、P2をスタートさせた。1周、2周と、次第にスピードを上げて、8周目に鋭いカーブを曲がった時だった。突然、ギアボックスが破損した。
すぐにクラッチを切ったが、クルマのスピードを抑えることは出来なかった。車体はスピンして、コース脇の立ち木に後部から激突した。
救急隊が駆けつけた時、グシャグシャに潰れたクルマは転覆し、5、6m離れたところに、Nuvolariが投げ出され、気を失っていた。
「 Nuvolariが死んだ!」
不吉な噂が、関係者の間で広まった。
しかし、Nuvolariは病院で意識を取り戻していた。全身に包帯をグルグル巻き付けられ、まるで古代エジプトのミイラのような姿で病院のベッドに横たわっていたのである。
「1ヶ月は絶対安静だ。その後、再びレースに出場できるかどうか、わからない」
医者は冷酷な診断を下した。
「先生、家には知らせないでください。その代わり、叔父の Giuseppeを呼んでほしい」と、Nuvolariは頼んだ。病院からの急報で Giuseppeがクルマで駆けつけてきた。
「だいぶやられたな。これじゃ、来週のレースは諦めることだ」
Giuseppeは、白い丸太のようにベッドに転がっている Nuvolariを見て呟いた。来週の月曜日には、モーターサイクルのグランプリが行われる予定だった。Nuvolariは、その優勝候補にあげられていた。
「叔父さん」
小さな声を絞り出して、Nuvolariは言った。
「来週のレースまで、あと7日あるよ」
「そうだ、その意気だ!」
Giuseppeは哀れな姿に成り果てた甥っ子を力づけるつもりで言った。心の中では1週間ぐらいで怪我が治るとは思っていなかった。
ところが、レース当日の朝、Nuvolariは起き上がり、医者に頼んだ。
「包帯を巻き直してくれませんか? モーターサイクルに乗れるように」
「その体でレースに出るつもりなのか? 死んでしまうぞ」
医者は呆れ返っていた。
「とにかく、お願いします」
Nuvolariが、あまりに強引なので、医者は根負けしてしまった。
「勝手にしたまえ。その代わり、君がどうなろうとも、私は責任をもたんぞ」
Nuvolariは無謀にもサーキットに現れた。包帯を巻き直したといっても、怪我が治ったわけではない。モーターサイクルに跨り、両手でハンドルを握り、両足でペダルを踏むフォームをとったきり、体を動かすことは出来なかった。
旗が振られ、レースが始まった。車体の振動で、全身が気の遠くなるほど激痛が走った。しかし、Nuvolariは神業とも思えるほどのスピードで完走し、誰もが疑った優勝を成し遂げた。
「奇跡のミイラ男、モーターサイクル・グランプリに圧勝!」
地元の新聞は、Nuvolariの闘志を讃えたが、「狂気の沙汰だ!」と、彼の無鉄砲な出場を非難する声も多かった。
*1:The company was founded in 1919 following the conversion, after the First World War , one of the most important Italian engineering companies, the ' Ansaldo . The name comes from Giovanni Ansaldo ( 1 819 - 1,859 ), owner from 1853 of Giovanni Ansaldo & C company initially specialized in the construction of locomotives, ships, and military means. After the First World War, the company launched a restructuring to survive it civil and tried the way of motoring. The house Ansaldo motorist suffered a first major crisis in 1921 following the bankruptcy of the Italian Discount Bank , the largest shareholder, so that the 7 March 1923 changed its name to Ansaldo Cars SA. The crisis of 1929 and especially the inability of management to understand the needs of the market at the Ansaldo lead to the liquidation. In 1932 the company was absorbed by the OM , but the crisis continued. A null served a new name change, so that later on all equipment and facilities will be transferred to the Officine Viberti and cars Ansaldo was never mentioned.